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今いるところが嫌なら動けばいい。

今いるところが嫌なら動けばいい。木ではないのだから。
ジム・ローン。

とある名言。
一言多いぞジム。
煽るなジム。
そういうところが嫌われるんだ。
「言い方!」なんて怒られるんだ。

だがもちろん、大事なことはあなたが木かどうかではなく、前文だ。
足が付いているんだから動けと。
考えることができるのだから動けと。
自由なんだから動けと。

おっと、「木は不自由だと言いたいのか」というまた別の話になってしまうところだ。
とにかく、煽りという名のユーモアに引っかかっている場合じゃない。
本筋である、「今いるところが嫌なら動けばいい。」について考える。

(ちなみにわたしはジム・ローンを知りません。名言集みたいなのに載っていた言葉です。)

「そんな簡単に言わないでよっ!」と簡単に言う人が必ずいらっしゃいますので、少しずつ考えていきたい。今いるところというのは、なんにでも置き換えて良いのでしょう。場所だけでなく、状態やら感情やら環境やら距離感やら待遇やら、なんでも成り立つのでしょう。この点は問題ないかと思います。
問題は次だ。「嫌なら動けばいい。」なんて突き放し方ですこと。身も蓋もない。「木ではないのだから。」のおまけ付き。

わたしは、この「動けば」がとてもいいなって思いました。

「動けば」もまた「今いるところ」と同じように大きく解釈してよい言葉だと思います。強い解釈にして「嫌なら戦えばいい!」でも成り立つし、弱い解釈にして「嫌なら逃げればいい!」でも成り立つ。「ちょっと休めばいい。」でも良いし、「泣けばいい。」でも良い。落ち込んでも良いし酒を飲んでも良いし労基に駆け込んでも良いし実家に帰っても良い。
とにかく「今いるところが嫌なら何かすればいい。」って言っているのかと。当たり前な気がするお言葉です。しかし、今いるところが嫌なのにピクリともしない派は一定数いる印象はある。

なぜか。「そんな簡単に言わないでよっ!」と簡単に言う人達はどこらへんに難しさを感じているのだろうか。

それはズバリ、「動けない」と「動かない」を都合よくごちゃまぜにしているからだと睨んでいる。
「動けない」は「動くことができない」何か外的な理由がある。本人の意思じゃない感。
「動かない」は「動く気がない」何か内的な理由がある。本人の意思感。

わたしは「動けない」が嫌いだ。しょうがないんです的なニュアンスが非常に嫌いだ。さらに、「動かない」を選ぶと「動く気がない」ってことになり、そんな嫌じゃないってことになってしまう可能性が高く、「動けない」ことにすれば「動く気はある」ってことになるのでなにかと便利なんだよな。
もちろんそこまで考えて発言していないのはわかっている。だから言いたい。考えて発言しろと。
動けないってことは自分自身以外の要因が含まれている可能性が高いから言い訳やら逃げ道には最適だ。

仮に、「今いるところが嫌で動きたいと思っているが、大いなる理由により動くことができない。木ではありません。」という人がいたとしよう。

わたしは思う。そう、木ではないのだ。あなたは木ではないのだから、どんな理由であったとしても、動かないとあなたが決めたのだ。「動きたいけど動けない理由があるから動かない。」とあなた自身が決めたのだ。

わたしは、あなた自身が決めた「動かない」という選択を「動いた」と捉える。←ここものすごい重要。テストに出したい。

だが、「動かない」を選択すると、「そんなに嫌ではなかった」がくっついてくるんだ。
どうする。
いいじゃん。
(大前提、嫌ではあるが)そんなに嫌ではなかったんだよ。
「動けない理由」と「嫌」を天秤にかけた結果、「動けない理由」の方が重かったんだよ。
いいじゃん。
そう気付けたことが素敵じゃん。
違うのかな。

あれか。「動けない理由」と「嫌」の重さが完全に釣り合っちゃってるってことはありあえる。
世の中理不尽なことだらけだ。
じゃあどうする。
諦めるなよ。
考えようよ。
「考える」もまた、「動く」と解釈できるから。

今いるところが嫌なら考えればいい。木ではないのだから。
ハヒ・ヘホーン。

以上。

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