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【日本史】遊女はみんな梅毒だった!?吉原遊女の性病事情

やっほー。瑠奈でーす。

吉原遊女の暗黒面は多々ありますが、、、

衛生面は最悪だったようで、遊女のほとんどが性病を患っていたと言われています。

ですので、今回は江戸時代における吉原遊女の「性病」について紹介しまーす。


◎江戸時代、吉原遊女の性病事情

厳しい労働条件のもと、不摂生な生活をおくっていた吉原遊女は体調を崩し、病気に罹りやすかった。遊女が患う病気の種類は、風邪などの他に、結核、淋病や梅毒などの性病が多かった。

性病予防具もなかったし、性病に対する知識も不足していた。

このような環境下で不特定多数の男性を相手にしていたわけだから、遊女が性病に罹患するのは当然のことである。


初年の内に梅毒を患う

ほとんどの遊女がデビューしてから1年以内に梅毒に感染したという。

当時は抗生物質がないかったため、完治することはない。漢方で痛みをやわらげるなど、その場しのぎの対症療法、民間療法を行うだけであった。

梅毒は感染初期には局部に痛みがあり、発熱や関節痛を伴う。髪が抜けたりなどするが、しばらくすると潜伏期間に入ったため、当時の人々はこれを完治と考えていた。



鳥屋につく

吉原では梅毒にかかり寝込むことを「鳥屋(とや)につく」と言った。これは遊女が梅毒を患って、髪の毛が抜け落ち、病床に伏せる様子を、夏から脱毛し、冬にかけて毛が新たにまた生え変わる鷹のたとえからきている。

いったん鳥屋についた遊女が回復すると、もう二度と梅毒にはかからないと考えられていた。そのため、鳥屋から復帰した遊女は妓楼から歓迎され、一人前の遊女になったとたくさんの客を取った。また、吉原で働く前に性病を経験した者は、価値が高く、高い値段で買われたと言われる。


遊女の手作りの薬

遊女が、性病である淋病の薬を手作りし、馴染み客に渡すサービスも存在した。その薬の作り方は、各種の薬草を煎じ、女の陰毛三本を黒焼きにしたものを加えるらしい。

陰毛を黒焼き?笑 とんでもないですよね。

当時はこの怪しげな民間療法などで痛みを抑えながら、性病予防などはせずに接客を行っていたのだ。


ごめんなさい、なぜ陰毛を入れるのかまでは分かりかねます笑
もうすこし研究しますね笑


性病を患った遊女の悲惨な末路

性病に限らず病気を患った遊女は、病状や遊女の稼ぎによって、楼主(遊女屋のオーナー)の対応は異なった。妓楼(遊女屋)としては一日も早く遊女に仕事復帰してもらい、客を取って欲しいため、その店の稼ぎ頭である遊女や症状が軽い遊女が、病気に罹れば、手厚い看病が施された。

人気遊女や治癒見込みのある遊女には、手厚い看病をしたように思えるが、治療費や薬代、その間の食事代、付き添いの新造や禿の手当て、看病にかかった費用は全て遊女の負担であった。そのため、遊女にとっても借金が増えていく療養期間は気楽なものではなかった。


このような治療を受けられる遊女は稀で、残酷で惨めなのは、人気のない遊女や全盛期を過ぎた遊女、病気の回復見込みのない遊女であった。これらの遊女は上記にある手当ては受けられず、薄暗い行灯部屋に放り込まれ、ろくに食事も薬も与えられず、放置された。妓楼にとってもお荷物であった売れない遊女は、病気を患ってしまっては余計に働くことができず、「早く死んでしまえ」と言わんばかりの劣悪な環境下での治療を強いられた。

『世事見聞録』(文化13年)という書には、梅毒にかかり、ろくに看病もされなかった遊女が、首を吊ったり、井戸に身を投げたり、自分で自分の喉を突いたりなど、自殺することもあったと記される。


今回は吉原遊女の性病事情について紹介しました。
病気を患った遊女の行く末は、まさに吉原の闇の一つです。
梅毒の治療法では、水銀が用いられたと記される書もあります。梅毒予防について真剣に取り組み始めたのは、明治時代も目前の1867年とも言われます。

遊女について調べると、結局、遊女は人ではなく、商品としてしか見られていなかったのだなとつくづく感じますね。。。


今日はこの辺で!



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母がバツ2の女子大学院生。瑠奈
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