春の午後に思うこと
散歩中、ベビーカーを押す私の10メートルほど前を歩いていた長女が、突然振り返ってこっちこっちと言うように手を大きく振った。
追いついて長女が見つめる先を見てみると、少し下がったところにあるだだっ広い空き地いっぱいに、たんぽぽが群生しているのだった。
たくさんの黄色が点在している様子に、長女の目が輝きだす。先ほどまで家でYouTubeを見ながら、歩くのが面倒だから散歩は嫌だとぶーたれていた現代っ子の姿はどこへやら。
「散歩楽しくなってきた!」とはしゃぎながらたんぽぽの数を数えている。
よく見ると、たんぽぽの他にも、オオイヌノフグリやナズナ、ヒメオドリコソウなど春の野花がたくさん咲いている。
私が子どもの頃も、近くの公園や道端でよく見かけては摘んで帰っていたことを思い出した。
子育てをしていると、こんな風に、忘れていた過去の記憶を不意に思い出すことがよくある。
公園のブランコが、想像よりもずっと高く上がることも、上がったときに下で待っている親や友達が小さく見えることが怖くもあり爽快でもあることも。
泥だんごを作って白砂できれいに固めたものを得意げに誰かに見せたあと、手が滑って落としてしまったときの悲しさも。
もちろん、子育てを通して新たに発見することもたくさんある。
1人で歩いているときにはなんでもなかった道の段差やちょっとした斜面が、ベビーカーを押しているととても気になることや、スーパーや道端で突然仰向けになって泣き出す子に対してただオロオロしてしまう親の気持ち。やろうとしていたことが、子どもの泣き声によって何度も中断され、簡単なことがいつまでたっても終わらせられないことも、子どもができてから初めて知った。
"子育ては親育て"とはよく言われることだが、なるほど忘れていた過去の記憶を思い出し、新たな発見をし続けるという点において、日々親も育てられているのかもしれない。
そんなことを考えながら、長女の嬉々とした姿と次女の眠そうな顔をぼんやり眺めていると、くるくると毎瞬のように変わっていく娘たちの気分と機嫌に振り回されるこの日々を、どこか眩しい思いで見つめている自分に気づいた。
そんな、何でもない春の日の、何でもない午後のひとコマ。