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スッタモンダヴォーズ アンコール毛脱
他人のフリ見て我がフリなおせ
なぜか。
あなたに起こる災いや苦しみが起きなくなる。ウソだと思うなら、観念を手放してみるといい。やがてストレスなど幻の如く消えていくだろう。思いは重い。また考えなくとも必要な思考はやってくる。それはやってくる。もうお気づきであろう。自分が考えていない思考がやってきていることに。それは流れている。流している。流れるまま、自動だ。
「考えないこと」があなたを真の至福へ導くのに、あなたは「考え続ける」。もちろん活動的なあなたであるから、いつまでも考え続けようが全く問題ない。ただ、あなたの人生を甘く至福なものとするならば、「考えないこと」が重要であり、観念の解放は即ち「何もしない」という「在る」ことにより成される。
ゆえに人間とは「その身体そのままで神である」
という言葉がある。
自我が発動した瞬間に神は消えるとも云えよう。赤子の笑顔に観る意味づけも変わるのではないかね。あの状態は祝福に包まれているゆえ起きている。そう、その祝福とは忘れているだけで最初からそこにあったのだから。
例えば、もしあなたの家族や友人知人に向け「注意を促す」ような言葉を投げかけたとしよう。その時、このような感覚を覚えたことはないだろうか。
「まるで自分に言っているかのようだ」などと。
まだ気づいていないならば気づかれよ。写し世の本質に。鏡の世の仕組みに。さて、なぜ鏡の世なのかはこれまで書いてきた通り。鏡はあなたの観念を解放するためにある。人生とは浄化である。浄化を終え、自分ではないものが消えたとき、内側から本当のあなたが現れる。その現れるあなたとは、思考の私が消えた”あなた”だ。私とは言わない”あなた”だ。
例え、そこに戻らなくともあなたは本当のあなたを現すための一助をしている。例えその自覚がなくとも。誰もが誰かの人生の脇役を担っているといっていい。誰もが主役であるといっていい。たとえ、その思考に自覚も自由意志も無くとも。
人のせいになどしないことだ。なぜなら、その人はあなたのために存在しているように見える”あなた自身”なのだから。あなたの観念を解放するために演じてくれている。外側の事象も同じく。ルールを科すことで自分自身を縛り付けていることに気づかれよ。同時にこうも言っておこう。そこに善悪の判断をする者がいてはならない。
現世はあなたが判断した通りの顔を見せるだろう。あなたが判断した通りのものがまるで違う顔のフリをしてあなたに返ってくるだろう。現象が気に入らないのならば観念を変えるといい。世界を救いたいのなら、、つまり本当の意味で自分自身を救いたいのならば、もっとも「在る」がいいだろう。赦し続けよ。他人のようにみえている自分を。己を。本当の自分ではないものを手放すことによって。
「私はこの世界とはまったく関係ない、同時にすべての中から選択できる」という本当の自由を感じるからだ。人生とは己を知る作業の連続。
ウソだと思うなら、観念を手放してみるといい。
いくつもの観念を掴んでいたことに驚くかもしれない。
自分とは何か?
ヴォーズはあなたの中心から流れている。それはあなたの内側と外側にあるものとまったく同じものだ。アンコール?もう一度云おう。
境界はどこにもない。
惑星ムチュウにも。
世界にも宇宙にも。
あなたはすべてなのだから。
自我が完全に消えた頃。
完全なる毛脱は成される。
分かれし者は存在しない。
判断、分別は・・・無い。
判断する者など実体なく、
それは存在しないのだから。
同時にすべてである”あなた”は永遠に存在するだろう。
思考のあなたが消えると、神が顕れる。
神とは全なる愛である。
それは微笑みを浮かべながら。
あなたがヴォーズだ。拈華微笑。
それは心や言葉の領域を超えたところに。
なぜなら、この文字もまたガラクタにすぎないのだから。
至福を。祝福を感じよ。
在るを選択するなら、それは必ず答えるから。
あ。ちなみに気づいていないだけで、
時折あなたはその状態に入っている。
思考を手放し、在るがままに。
すべてを赦した状態に。
あなたがいつまでもこの安らぎに包まれますように。
ー惑星ムチュウー
タオノ=スケベイダーとオジ=サン・毛ノービは再会を喜ぶ間もなく、花子の掴む観念を愁いていた。
『花子の中に恐れが見える。それは私が驚くほど深いものだ』
〈父を超えましたね。私の特異は他人の観念を視ることですが、彼女は外側を信じこんでしまっている。その恐れゆえ、道から外れていることに気づいていない。ここ惑星ムチュウにおいての人間の人生とは分かれて見えているようで本来は一本道。貴方が25年の時間を使ってまで闇を広げた理由は花子さんを真理へ戻すためでしょう〉
『そうだ。自分が何者であるかを忘れた者は至福に至れぬ。また恐れは内側に闇を生み出し苦しむ。怒り、憎しみ、敵意、無力感・・。”稚魚、成魚もなし”の話しを?』
〈もちろんです。この世界に入った稚魚は最初、見るものすべてが自分でした。幸せそのものでした。ところが、やや成長したその子は、成魚と同じ水槽に入り、自分より大きな存在から多くを学ぶ。ここではこういうルールがあるのだ、と。私とお前は違う存在なのだ、と。やがてその子は疑問を抱く。”この世界は真実なのだろうか?”と。そこにゴカイが現れ、こう言います。”学んだことをすべて忘れることも大切じゃ”と。その子は思い出す。ここには本来、差別や分離は無い。意味などなくただ在るがまますべてが在る。自身で歪んだ観方をしていただけだった。あらゆるものを手放したとき。すべて赦されていると理解したとき。色眼鏡を外して世界を観たとき。その子は最初からそこにあった幸せそのものを感じます。自身がヴォーズそのものであったことを。そのとき、世界の在る意味とは愛そのものとなる〉
『フン。恐れなどの感情とは、学ぶためというよりここでしか味わえぬ楽しみなのかもしれぬ。私もはじめはマスターの話しを疑ってばかりだったが、実際にそれに至ると、まさに疑いようもない。中心から絶えず溢れているのだから。たとえそれを認識していなくとも同じであろう。すべて有ることに包まれるという至福、そして疑っていた私はいなかった』
〈聖賢たちは理解しておりました。”私はいないと同時にすべてはひとつ”であることを。釈迦や仏陀という個有の存在はいなかったのです。実在だけ〉
『宗教すべてを否定はできぬが、信じれば救われるを謳う宗教とは、まるで幻想を信じ込むようなもの。釈迦もイエスも嘆いておる。そうでなく写し鏡の他人を見て自身の穢れに気づき、本来の純粋無垢である自身の中心に委ねよ、と』
〈花子さんの解放をどのように?〉
『・・花子を無理に変えようとせず、そのままにしていただいたことに感謝しよう、オジ=サン』
〈流れるままにさせていただけですよ〉
『ありがとう。・・花子もまた我々だ。ヴォーズのエネルギーを必要とする者には届くだろう』
〈ヴォーズと共に👏〉
ではまた🎵
ピントが変化した頃👳♂️👍✨
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