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高橋哲哉「メルロー=ポンティと〈根源的自然主義〉」(1991)

高橋哲哉「メルロー=ポンティと〈根源的自然主義〉」『現象学年報』vol.7、日本現象学会、1991年

不在が現前の経験的変様にすぎないように、災厄は至福の、悪は善の、暴力は平和の、死は生の、誤謬は真理の経験的変様にすぎない、とメルロー=ポンティは考えているように見える。〔……〕このコミュニオンにおいては、〈わたし〉と他者、〈わたし〉と自然とのあいだにいかなる暴力性もありえないものと想定されている、といえるだろう。

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 日本のメルロ=ポンティ研究者、否おそらく哲学研究者一般にとっても有名かもしれない高橋哲哉の代表的なメルロ=ポンティ評。メルロ=ポンティを専門としない研究者にとってそれはメルロ=ポンティ哲学の全体的な雰囲気を掴むための格好の入門書であり、メルロ=ポンティを専門とする研究者にとっては悪名高きドクサを蔓延させた仇敵である。同論文は翌年の『逆光のロゴス』(1992)に収録された。日本における他者論ブームの嚆矢でもある『記憶のエチカ』(1995)は3年後である。
 もちろんF. アルキエの「両義性の哲学」(1947)まで遡ってもよいのだが、港道(1983)やこの高橋(1991)によって醸成された「メルロ=ポンティ = 平和的癒合の一元論」という通俗的イメージはいまだ根強い。とはいえこれが極めて一面的なカリカチュアでしかないという認識もまた、今日のメルロ=ポンティ研究者の世代の努力(川崎2017、酒井2020など)によって、いまや広く共有されつつある。そのおかげで、いま論文を書こうとする研究者は、最初に高橋(1991)を典型的な誤解の例として挙げ、メルロ=ポンティ哲学のなかに書き込まれた暴力や亀裂や不条理といったものに言及した上で、これを「周知の通り」と片付け、早速本題に移ることもできる――そのような時代になってきたと言えよう。これは幾分、望ましい状況と言ってよいと思う。

 ここでは高橋を攻撃したいわけでも、また高橋を批判から擁護したいわけでもなく、ただ同論文の読書ノートを綴りたいだけだから、「メルロ=ポンティ哲学は平和の哲学なのか、不条理の哲学なのか?」という――もしかしたらあまり意味が無いかもしれない――問題には深く立ち入らない。どんなレベルの議論であっても、超越論的な議論と経験的な議論とを断りなく混同してはならず、敢えて混同する場合は最初に混同不可能性を極限までつきつめた上で混同するのでなければならない――そこに透徹した眼差しを投げかけていた哲学者の一人がデリダにほかならないのだが――、とだけ述べておこう。

 様々な意味で問題含みな(=内側に熱を包蔵した)論考だが、メルロ=ポンティ研究という点から言って興味深い議論もいくつか見られる。
 まず、同論文は、上述のような観点から参照されることが多いが、意外にも、メルロ=ポンティの「言語の現象学について」(1951)を中心的な参照テクストの一つにしている。本稿筆者は目下、同テクストを主題にした論文を準備しているところなのだが、例えばメルロ=ポンティの「自発的表現」という概念に言及した次の一節など、変えるべきところを変えればmutatis mutandis、準備稿で書いていた一節にピタリと一致してしまうものだった。

この「自発性」(spontanéité)を、カント的な意味での概念能力の自発性、すなわち、感性の受容性に対する悟性の自発性と混同してはならない。表現の「自発性」とは、むしろ「意思されざる自発性」(S 122)であり、〔……〕「自然発生性」に近い概念である。〔……〕カントで言えば「生産的構想力」(produktive Einbildungskraft)の作用に当たると言うべきだろう(SC 223, PP XII, PM 110, S 84)。

131頁

哲学界隈で「自発性」と言うと、どうも即座に「能動性」と同一視されてしまう傾向があるようだ、とここ数年感じていた。筆者の感覚からすると、むしろ「自発性」という言葉は、日本語学用語としての「自発」――たとえば、「被害者が偲ばれる」と言うときの「れる」の用法――を連想させるもので、第一には「自然発生性」を意味するものだったので、界隈の傾向は不思議だった。それで、このこと自体、敢えて論文の中に明記しなければならないのだろうと思って準備を進めていたのだが、意外な先達が居たのである。
 また、次の一節も、前期メルロ=ポンティの思想、『知覚の現象学』(1945)を丹念に読み込もうという今日のトレンドを先取りしているかのような正確な認識を提示している。

「知覚」の「悪しき両義性」から「表現」(とその「自発性」)の「良き両義性」へ。ここにはメルロー=ポンティの一種の回顧的錯覚がある。知覚と表現とは本来けっして対立しあうものではなく、知覚そのものが「表現」であることは『知覚の現象学』の最も重要な論点の一つであった。

131頁

メルロ=ポンティ哲学は前期から後期へ大きく転回したと考えるべきなのか、そうでないのか。①前期が良くて後期がダメなのか、②逆なのか、③最初からずっと良かったのか、④最初からずっとダメだったのか――研究者それぞれの立場はこうしたテトラレンマを成すわけだが、高橋はこの4つ目の立場をとっているわけである。本稿筆者としては、前期と後期の差異を大きく見積もるべきではないと考えているため、高橋に対してはどうか③に持っていきたいところだ。
 あとは、「人間中心主義」の問題。今般、人文学において人間中心主義批判というのは常套手段となっているが、本来、人間が人間のために作り出した思想が人間中心的であることを批判するというのは大きな困難を孕んだ作業ではないかと思う。今日の人間中心主義批判は、動物や植物、地球といったものを参照して語られるものであるが、敢えて歴史を遡ってみるならば、人間中心主義批判というのは元来、天上の神と対比された地上の死すべき人間のヒュブリスを戒めるものとして存在していたのではないか、などと想像してみたくなる。
 いずれにせよ、ある思想を読んだ際に、そこに人間の特権性を前提した一文があることを指摘することは容易い。しかしそうしただけでは何の意味も無い。というのも、その他の存在に対する人間の特権性という主張が、当の思想全体の体系の中に確固とした座を占めていたり、或いはその体系の至る所に密かに行き渡っているというのでない限り、その主張は当の思想を描き出すための通り道になった余り物でしかないのだから。その場合には、思想の余り物を余り物として面白がるような読解方法を採用するか、さもなければ、「当の主張は彼の思想である」と言うことを諦めるほかない。
 さて、高橋(1991)における人間中心主義批判はどうかというと、実は、なかなか簡単に無視できるものではない。というのも、メルロ=ポンティは確かに動物や無機物についてある程度のページを割いて体系的に論じているからである(『行動の構造』)。メルロ=ポンティ思想からは、実際に一定の動物論を取り出すことができる。そうである以上、彼のテクストに含まれる人間の特権性についての言及には大きな意味がついてくることになる。高橋の議論は暗示的なものに留まっているが、自然と表現の問題からメルロ=ポンティにおける人間中心主義の問題の糸口を開いたものとして、今後の研究の呼び水としては意義深いものとなるだろう。
 とはいえ、人文学一般における人間中心主義批判の難しさがあることには変わりがない。人間中心主義を批判すれば倫理的であるというのは大きな間違いであるか、少なくとも全く非自明なことである。むしろ人間中心性から決して抜け出すことができないことを認めることの方がはるかに倫理的である可能性もあるのだ。


文献表

F. Alquié, « Une philosophie de l'ambiguïté. L'existentialisme de Merleau-. Ponty », Fontaine, n° 59, XI, Paris, 1947, p. 47–70.
川崎唯史「メルロ=ポンティの戦後――暴力と平和をめぐって――」『立命館大学 人文科学研究所紀要』No.112、2017年、21–43頁
酒井麻衣子『メルロ=ポンティ 現れる他者/消える他者』晃洋書房、2020年
廣松渉/港道隆『メルロ=ポンティ』岩波書店、1983年

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