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雇止めに遭った。

先日、雇用先から、契約の打ち切りを宣告された。

雇われて1年だったが、予想以上の働きをしていた自負はあった。
契約時に提示された仕事内容は、補助教員、一般事務、雑務等だったが、向こうが必要以上に使えそうだと判断したのか、次第にその範囲を超えて仕事を頼まれるようになった。
ホームページの作成、更新、ブログの執筆、カリキュラムの作成。頼まれればなんだってやった。時には、会社とは関係ない、経営者が個人で請け負っていた仕事の手伝いのようなものをしたこともあった。
ふわっとした指示でも大抵のことはこなしていたし、その出来栄えが大抵予想以上で返ってきて満足しているというような言葉は、要所要所で聞いていた。
面倒なことや相手ができないことを一切合切押し付けられる、体のいい雑用係をやらされているような気がして、正直不本意に感じていたことも多々あったが、それでも、仕事で手を抜いたことはなかったし、重宝されているとも感じていた。

それだけに、「子どもとうまくやれないから」という理由で雇止めをされたと知った時は、正直、憤りを禁じ得なかった。(といっても、その当時は、顔にも口にも出せなかったが。)

確かに、私は、他者との関りが格別得意というわけではない(というか、寧ろ苦手だ)が、そこまで言われるほど悪かった気もしていない。
そもそも、その場で見ていたことも少ないのに、何故そのようなことが言えるのだろうか。
どのような対応をしていたら、満足だったのだろうか。

百歩譲って、私の子ども達との関わり方が相手の望むようなものでなかったとしても、相手は契約以上の仕事を要求し、その恩恵も十分に受けてきたのだから、その出来上がってきた仕事ぶりに対しては、ある程度の敬意はあってしかるべきだと思う。
それが、自分ができないことをやってもらっているのなら、尚更そうだ。

ところがどうだろう。

相手は、私に雇止めを通告したときに、私が予想以上に受け入れの姿勢を見せたことに安心したのか、新年度(つまり私がクビを切られた後)から始まる新規事業のホームページ作りを、悪びれもなく依頼してきた。(しかも、またしてもふわっとした指示で、1から創ることを丸投げ状態。)

喜んで仕事をできない私の心が狭いのだろうか。
「信頼されている証」と取れないことに問題があるのだろうか。

否。
私は絶対にそうは思わない。

契約更新が見込めない以上、もう私にここで頑張る理由もない。
それなのに、何故、数ある仕事の中から、敢えて、新年度の新事業ホームページ作りを頼まなければならないのだろうか。
勿論、時期的に今準備しなければならないというのはわかるが、私が逆の立場だったらかなり頼みにくいことだし、他に頼める人がいなくてどうしても頼まなければならない状況だったら、もう少し違う頼み方をする気がする。
あまり相手のことを悪く言いたくはないが、契約期間が満了する前に、使い倒しておこうというその魂胆が気に食わない。
私の心が鋼か何かで出来ていると勘違いしていないか。
もう私の鼻先にぶら下げるニンジンも無いのに、これ以上、私から何を搾り取ろうというのだろう。

正直、もう行かなくても済むなら、行きたくない。
吐きそうで、気持ち悪い。
そう思う私を、赦していいだろうか。肯定してもいいだろうか。


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