子供より大人のほうが友達を選ぶべき理由
ハチロウです。
「友達を選びなさい」っていうセリフがよくありますよね。
僕の親はあまりそういうことを言わなかったのだけど、小学校のころ、たった一度だけ、「あの子とは仲よくしたらあかん」といわれたのを覚えています。
そのときはクラス替えをしたばかりで、僕はほかに友達がおらず、「なんでそんなひどいことを言うんだ!」と反発したのを覚えています。
そしたら、遠くに住んでいるおじいちゃんまで、わざわざ「あの子と仲良くするのはやめておきなさい」といいにきました。
とてもやさしいおじいちゃんで、そういうことを言うとは思っていなかったので、すごくびっくりしました。
それから10年ほどして、成人式で子供のころの同級生が久しぶりに集まった時、「あいつ、○○して××になったらしいで」と聞いて、背筋が凍りました…。
大人のいうことは正しかったんだなと、大人になってからわかりました。
レヴィンという心理学者は、「場の理論」といって、人間は性格や行動パターンがあるように思うけど、実はその時の環境や一緒にいる人によって、行動を変えていると考えました。
確かにその通りで、「その時、誰と一緒にいたか?」、「その時、どういう環境だったか?」で、人間の行動は大きく変わります。
個人の性格特性よりも、「その場の雰囲気」や「その場の流れ」のほうが、僕たちの行動パターンに影響を与えているそうです。
まあ、子供の時のことを思い出してみると、「あんなにやさしいあの子が、あんなにひどいいじめをするなんて…」ということが、自分にも他人にもあったように思います。
例の「○○して××になったあの子」とずっと一緒にいたら、その場の空気に流されやすい僕なんて、何かに巻き込まれたりしていたかもしれません。
ただ、それでも大人になってから思うことは、「そうはいっても、子供って友達の選びようがないよな~」ということです。
結局、同じクラスの中から気の合う人を選ぶしかなく、しかも、クラス替えなどで仲のいい友達がいなくなったときは、同じように一人ぼっちの子に声をかけるしかありません。
そもそも、子供は環境そのものを選べないのだから、友達の選びようもないのです。
そんな子供に対して、「友達を選びなさい」というのは、よっぽどの赤信号でない限り、あまり効果的だとは思えません。
ただ、大人になった僕たち自身はどうでしょう?
人間なんて、大人になっても「その場の雰囲気」や「その場の流れ」というものに、とても強く影響されてしまう生き物です。
グチばっかり言ってる人と一緒にいると、つい自分もグチっぽくなってしまいます。
「どうせ無理…」と冷めた言葉ばかり使う人と一緒にいると、つい自分自身も「どうせ無理だよな~」と考えがちになってしまいます。
失敗したことを責める人と一緒にいると、自分も失敗に対して厳しい目線を持つようになります。
そしてこれって、逆のこともいえますよね。
やさしい人と一緒にいると、自分も自然とやさしい言葉や行動をするようになります。
行動力のある人と一緒にいると、自分も何か行動してみようかなという気持ちになります。
失敗したことを笑い話にできる人と一緒にいると、人間は自分の失敗にも他人の失敗にも、寛容になることができます。
僕はできれば、そういう人になりたい。
そして、大人は誰と一緒にいるかを、自分自身で選ぶことができます。
「この職場の人と一緒にいたら、自分まで心がすさんでいってしまう…」
「こんな人と結婚生活を続けたら、自分自身の心が黒くなってしまう…」
「このグループの人達といると、自分の心までもが濁ってきてしまう…」
そういう環境からは、自分を離してしまったほうがいい。
だって、レヴィンのいうとおり。
「誰と一緒にいるか?」、「どんな環境に自分がいるか?」、それだけで人間なんて、心も行動も変わってしまうのです。
人間関係をリセットするのは、とても勇気のいることだけれども、それはとても大事なこと。勇気を出す価値のあることです。
それは、人生を左右してしまうくらい、価値あること。
だから、本当は大人こそ、友達を選ぶべきなのです。
さて、僕が二十代半ばのころ。
いつもどおり親友ドリルのトラックに乗せてもらい、ゲーセン行ってラーメン食べに行った帰りに、ドリルは突然、切り出しました。
「こないださぁ、仕事中にうんこもらしてもうてさあ~」
その一言で、僕は爆笑してしまいました。
その頃の僕は、仕事が上手くいかずに転職を繰り返し、深く悩んで過ごしていた時期なのに。
その頃の僕は、自分の失敗や弱さを人にさらけ出すなんて、とてもできなかった時期なのに。
ドリルがうんこ漏らしたという一言で、その瞬間だけは悩みなんて忘れて、爆笑してしまった。
それから僕は、失敗したとか自分の弱さとか、さらけだしてもいいのかもと、少し思えるようになりました。
自分の失敗や弱さをさらけ出して生きた方が、気楽に生きていけるのかもと、少し思えるようになりました。
僕は、うんこを漏らしたことを、笑い話にできる人間でいたい。
なんだかよくわからないけれど、そのほうがきっと幸福な人生だと思うから。
そこにはなにか、人生に対するおおらかさや寛容さがあるのです。
「うんこ漏らした話でも、楽しく過ごせてたらそれでええやん」。
それは気楽に笑って生きていくための、人生観なのだと思います。
少なくとも、誰かの悪口や妬み話ばかりをするよりは、まだうんこの話で笑っていたほうが、楽しく生きれるはずなのです。
だから、もし友達を選ぶなら。
うんこ漏らしたことを笑い話にできる奴がいい。
なにより、友達を選べない子供の時は、学校でうんこ漏らしたことが原因でいじめられたり、そこから不登校や引きこもりになったりします。
本当はみんな、大人になっても一度くらいうんこ漏らすのにね。
そんなわけで、僕とドリルのnoteには、うんこを漏らした話が多いのです。
どうかバカバカしい話にも、お付き合いくださいませ。
この話の本当度。80%。
ドリルがあの時言ってたうんこ漏らした話が、仕事中だったのか仕事帰りだったのか、あまりよく覚えていない。
ここだけの話だが、奴はしょっちゅう漏らしてる。ドリルが漏らせば漏らすほど、ボクサーパンツがよく売れる。
あと小学校の時の例のあの子が、○○して××になったという話は、絶対に書けない。一生、書けない。
それからレヴィンの場の理論について、ちょっとあやふやかも。間違ってたらごめんなさい。
そんなわけでー20%。