武田信玄は全く戦国最強ではなかった
戦国最強の騎馬軍団を率いると言われてきた武田信玄。
軍記『甲陽軍鑑』の中でも、武田信玄は非の打ち所がない名将・名君として記述されています。
江戸時代の『日本外史』にも、
武田・上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る
と書かれており、江戸時代の講談で大いに脚色・美化され、そうしたイメージが現代にまで伝わっています。
しかし武田信玄の実像を調べてみると、とても戦国最強と言えるような立場ではなかったように思います。
地理から読み解く武田家の弱点
武田家は、今川領を攻めるまで、甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)を支配していました。どちらも内陸です。しかも山がちで米の生産力が低い。
そのため武田領はとても貧しく、食料や土地を求めて国外を侵略したという説があるほどです。
武田といえば金山経営で知られていますが、実は金山も武田家が直接支配していたわけではなく、黒川金山は在地勢力が、湯之奥金山は穴山氏が管理していました。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三が「海さえあれば国を豊かにできる」という台詞を言う場面がありますが、きっと武田信玄も同じことを考えていたに違いありません。
だからこそ日本海へ通じる道である川中島を何度も攻めており、桶狭間で今川義元が戦死すると「機を得たり」と言わんばかりに駿河に侵攻しています。
また、武田を象徴する、武田騎馬軍団。これも戦国最強か?と問われると非常に疑わしいです。
武田領で生産されていた軍馬は山間部に適した木曽馬であり、サラブレッドに比べて非常に小柄な馬。主に行軍や物資の運搬に用いられ、馬上で武将が槍を振るうには小さすぎます。そもそも武田軍の戦いのほとんどは野戦ではなく攻城戦でしたから、騎馬隊の必要性は薄かったはずです。
(画像をクリックするとWikipediaのページに飛ぶことができます)
武田勢力は連合国家
武田家というのは、その中に多数の豪族を抱える連合勢力でした。
真田氏(上田城主)、仁科氏(高遠城主)、小笠原氏(松尾城主)、木曾氏(木曽郡)、諏訪氏(諏訪郡)、小山田氏(岩殿城主)、穴山氏(河内領主)などの豪族は、それぞれ領地を家臣団を持っているので独立しようと思えば独立できます。
そのため武田本家が求心力を失うと一気に瓦解する恐れがあり、事実、武田家滅亡の際には仁科氏と真田氏以外いずれも離反しています。
もちろん信玄もこの問題性を理解していたようで、政略結婚を用いて豪族らとの結びつきを強めようとしていた形跡はありますが、結局不徹底のまま息子の勝頼に引き継がれることになりました。
武田家滅亡は勝頼1人の責任だったか?
武田信玄は晩年、自分の方針に異を唱えた嫡男・義信を処刑しており、国内を動揺させています。勝頼が急遽家督を継ぐことになったのは他に健康な男子が少なかったからでした。
勝頼からすれば、頼れる兄弟も少なく、家臣には他国衆を多く抱えた中での船出。しかも勝頼はそれまで諏訪家に養子に出ていたのですから信玄以来の譜代家臣とも親しくありません。
勝頼自身も政治能力が劣っており、またそれを磨く機会もなく、かといって勝頼を補佐できうる参謀もいない。
その延長線にあったのが長篠の戦での大敗であり、武田家滅亡であったと思います。
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