男なんてものは
「主語の大きい話には気をつけろ」というセオリーの通り、このコラムも話半分で読んでほしい。
何度も書いているが私は離婚経験者である。おかげさまで、フリーに戻ってからもうすぐ2年が経つ。明けない夜はないし止まない雨もないという至言の通り、あの脳内報酬系が蹂躙された日々は既にむかし、事後のぬかるみを歩んでいたような時間も今は遠くになりにけり。最近では「結婚、してたっけ?」という状態である(してた)。しかし短い時間ながらも強烈に私に刻まれた傷は、「男なんて」という接頭語となって現れている。
「男なんて」
基本的に自分の話ばっかりする。自分の利益と面子のことしか考えない。優しくなるのはエロと金が絡んだ時だけ・・・お世話になった男性・心から尊敬するお仁は何人もいるが、一歩深入りした過去の男たちの共通項から「男=どうしようもない」という文字が私の辞書にくっきりと記された。いつか書き換えられる日は来るのだろうか。
最近そこに「男はなんでいくつになっても下ネタ好きなのか」という疑問が加わった。きっかけは子育てをする友人に聞いた話である。彼女は二児の母で、側から見れば子供たちは無垢で可愛い男兄弟なのだが、家では「う○こ・ち○こでずっと笑ってて本当に嫌になる・・・」のだそうだ。
もちろん世の男性陣全てがそれらを好むとは思っていない。世の中にはジャニーズとフルーツに興味がない女もいる(私のことだ)。だがしかし、である。私はいい歳をした男たちが、いつまでも嬉々としてそれらのハナシに時間を割いている様をイヤというほど見てきた。なので、「子供のうちからそうなのか、男は…」と天を仰いだ。
そこへきてリリー・フランキー氏のエッセイ『エコラム』を読んだ。映画化もされた東京タワーの話は未読だが、今や日本映画界には欠かせない存在の、酸いも甘いも噛み分けた(ように見える)大人の男のエッセイに触れたくなり、手に取った。随分前に雑誌CREAで、故・ナンシー関氏と連載で対談していた『小さなスナック』は私の心の拠り所というのも大きな理由だった。
まぁしかし、内容の8割は「う○こ・ち○こ」にまつわるものだった。本当に。まぁまぁ速読の私でも、一度休憩を挟まないと何かの臭いで鼻が曲がりそうな程だった。30半ばでウブなふりをする訳ではないが、ひとりっ子・女子校育ち・結婚期間は1年前後という「年頃の男性の生態をそんなに知らない」人間にとっては、「男子ってフケツ!」と思わずシャウトしたくなるのも宜なるかな。目眩がするほどであった。
でも、う○こ・ち○こ(伏せ字にしたって書くのも憚られるのだ、本来は…)の合間合間に見せるのは、どうにも埋められない孤独というものの存在だった。自分の意思でコントロールできるものなんて、実はそんなにない。得意先や仕事の同僚はもちろんのこと、身近なパートナーや自分が産んだ子供でさえも、ハイハイと言うことを聞いてくれることはない。我々女はホルモンバランスに振り回されることで「人間は自分の体さえコントロールできない生き物」と10代のころから毎月のように学ぶが、実は男性は「う○こ・ち○こ」の存在からそれを学び取っているのであろうか?子供らが性懲りも無く際限なくそれで笑い続けるのは、その無常ともいうべき真理を無意識に忌避し恐れるためか・・・?
考えすぎだな。でも私は男に生まれ変わるとしたら、リリー・フランキー氏のような人になりたい。現在のマルチな活躍とは関係なく、人間の業の深さやどうしようもなさをそのまま川の流れのように眺めている感じに憧れる。狭い世界でのしあがろうとすることはないが、一方で「あいつはダメだよ」みたいなことも言わないだろう。なぜなら人間結局最後は「う○こ・ち○こ」(5回も書いてしまった)も制御できない状態に行き着くのだから・・・なんて考えてたりするのかな。どうかな。わからないが。
そういう人に、私はなりたい。
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