『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』考察・感想
久しぶりに読んでの感想。
久しぶりに読んだら主人公が36歳で、しかも新宿駅9-10番ホームで松本のことを考えるシーンがあって驚いた。本や映画にはそういう巡り合わせが不思議とある。
考察サイトで読んだ記事が頭に残っていて、30歳のユズを浜松で殺害した犯人が父親だと勝手に思い込んでたんだけど、そういうシーンは作中には全くなかったのにも驚いた。考察サイトって滅多に見ないのに。
個人的には、あれはサスペンスではないので「誰がユズを?」というのはあまり大きなテーマではないと思った。誰が?よりも、おそらくユズの生きるキツさ…20歳ごろ1度壊れてしまい、クロのサポートが得られなくなってからの独りで歩むことの困難さが、彼女を内側・外側から蝕んだのだと思った。
ではそのキツさ、つくるをグループから切るにつながった虚言はどこから?と言えば、やはりユズの中で完璧な居場所だった5人組をつくるが抜けて”壊して“しまったのが(彼の名前とは逆に)、彼女には許せなかったのかなと。そして自分の身に起こった酷いことを受け止めきれず、つくるに転嫁した。もしくは、“酷いこと”の相手がつくるだという虚構に逃げ込むことで、その時のユズは辛うじて生き延びることができた可能性もある。
つくるが大学時代に唯一交流した灰田はもちろんシロとクロのイメージが現実に混じり合ったもので(一緒に音楽を聴いたり泊まりで話し込んだりご飯を作ったり…完全に特別な関係)、不自然に抑え込むことをせずシロorクロとそういう関係を築くべきだったという、つくるに必要だった通過点かと。なのでシロとクロが複雑に混ざり合ういつもの淫夢を見たあと、それを灰田が“受け止め”、そして彼は去った。
つくるの巡礼を促した沙羅の存在も考察サイトの内容が頭に残ってて、そっちに引っ張られた(ユズの姉説)。でもつくるとユズ姉は「たまに冗談を言い合う」関係だったんだから、私は違うと思った。なんとなく沙羅は中庸というか、きっかけ・媒体・運び船の役割という気がしている。
だからこそつくるは沙羅の手を離してはいけないし、手に入れなくてはならない。振られるor notは関係なく、つくるは沙羅を求めなくてはいけない。そうクロにも助言されている。魅力的な中年男性と楽しげに話す彼女を見てもなお(それはつくるが蓋をした、嫉妬という感情のトリガー)。
身を切るような嫉妬に苛まれてもなお、それを内包しながら人を希求すること。それが36歳になったつくるが乗り越えるべき・通過すべき最後のゲート。高校生時分の、2度と戻らない完璧なユートピアからの卒業。そこから追放されたつくるがようやく目を覚まし、自らの手足で生きていくこと。
そうでないと可哀想なユズのように、おそらくつくるも密室で人知れず朽ちていくかもしれないのだ。そういう清濁併せ飲んだ上での他者への強いコミットメントは、映画『ドライブ・マイ・カー』にも共通しているかもしれない。「音に会いたい」という、西島秀俊の慟哭。
なお灰田がつくるに語った緑川氏のエピソードはやはり“トークン譲渡行為”であり、つくるに埋め込まれた“死”の時限爆弾だと思う。死は決して遠くにあるものではない。
村上作品の魅力は抽象性と多面性だと思っているので、これは解説でも何でもなく、あくまで私の「腑に落ちた解釈」です(「※個人の感想です」ってやつですね)。
ちょっとスッキリした。色彩とは、感情そのものだ。