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情熱のカケラを拾い集めたら

先日、『台湾式足もみ』のセラピストさんがインスタで紹介されていた本を読んだ。

『いつかみんなでごはんを』蒼月はる

感想というか、自分の経験を含めて思っていたことや、本を読んで改めて感じたことなどをnoteに書き残しておきたいのだけど、
なんだかちょっぴり難しい。

 
出てくるものが多すぎて整理整頓が追いつかない。

そして結局、いつものように抽象的になりすぎてわからない文章になってしまいそう。


だけど、セラピストさんが
『きっと生命力溢れた文章が踊っているであろう一冊』
と書かれていたとおりの本だった。


なんとなく悶々としてやる気が出ないわたしに、エネルギーを注いでくれたような。


表現すること、したいこと、つくること。


昔から好奇心旺盛で落ち着きがなく、あれもこれも好きでやりたい。
『あるもの』に対してインスピレーションが湧いたら、すぐやりたい。

いわゆる多動的なわたしは、いつもいろんなことが溢れすぎていて。

それをうまく言語化できず、話しても理解してもらえず、すべてを否定されて諦めて生きてきた。

才能があるわけでもない。
能力があるわけでもない。
ずば抜けて何かができるわけでもなく、いつもドベ。

そんなお前に何ができるんだ、と。


音楽や絵、工作、文章を書くこと、ダンス、人を癒やす仕事、整体師、救急救命士。
そういうものに憧れを抱いてきた。

共通点は『プレイヤー』
何かを『教える』ような仕事には全く興味がなかったんだなと(笑)
そのくせお節介すぎて、結局教えてたりもする。


それと、何かを表現することに惹かれてたんだと思う。

そういうことで何かをするときは、本当にアホみたいに真剣になってた。全然未熟なのにね。

周りがドン引きするほどに。

ちょっとの発表とかでも。
だから、目立ちたがりに見られてたかもしれない。

だけど本当は影でいたいわたしもいる。


未だにそうなんだけど、表現したい、やりたいときの速さは、多分周りはついていけない、理解できないんだと思う。

やり始めたら止まらない過集中も、細かいこだわりも。


だから否定されるし、バカにされるし、孤独を感じる。


行動を全くしていないわけではないのに、やってると思われないのは、なぜだったんだろう。
こだわりが細かすぎた?
影でいたくて、見られたくなくて、コソコソしてたから?

未だに、『やってるのに、やってないと思われている』という恐怖のようなものが自分の中から消えてくれない。


『対話』することもそうで、
対話が生まれて、対話から生まれるのに。

なんとなくの雑談や一人語りからアイディアが生まれて創り上げるのがものすごく楽しいのに。

なんとなくの雑談や一人語りからSOSだったり本音だったりが見えてくるのに。


そういうのは生産性がなく、時間の無駄だ。
という人が、わたしの周りに何人かいた。


一人語りや対話は、まるでブルーゴールドストーンのように暗い青の中でキラキラしてるイメージ。


こういうわたしの感覚を、誰かに押し付けたり、わたしの感覚と違うからって否定したりはしてないのに、
一方的に否定されるから、悲しくなる。

ただ、わたしも気をつけないと、
『自分の感覚が当たり前じゃない』ことを忘れてしまいがち。
結果押し付けになるから本当に気をつけないと。
(優劣ではないよ。)


ただ、対話から生まれるアイディアとかをカタチにするときって、ものすごくエネルギー湧いてくる。

だから速くもなる。

浅く広くよりも、狭くていいから深く人と関わりたい。
浅い川で遊ぶよりも、深く深く潜っていきたい。


そんな中で理解されないとか、否定されたりとかいろいろあって、情熱も本気も、どっかに忘れて置いてきてしまったのかなぁ。。。
なんて最近思う。

元々そんなものなかったのかもしれない、とさえ思えてくる。


そもそも対話は人がいないとできないから、一緒に深く潜ってくれる人との出逢いは本当に大切。

『写ルンです』で撮影した紅葉🍁


『いつかみんなでごはんを』の表紙は、ぱっと見た瞬間に、
きっとこういう感じなのかもって思って惹かれた。

読み終えてから改めて表紙を眺めると、最初の印象よりもずっと深くいろんなことを感じて、泣きそうになった。


わたし、こういう本の表紙描いたりしたかったんだ。
何か文章も書きたい。

あと、やっぱり深夜のラジオ番組のような落ち着いた感じのトークも。

いつも何かを思いつく。
思いついたらすぐにやりたくなる。

だけどそれをどうやって組み立てたらいいのかがわからなくて、いつも躓く。

誰かにわたしの思考の通訳をしてほしい。
そして組み立ててくれないだろうか。

いつもそういう人に出逢えないかなって思ってる。

「誰か助けてー」って叫びたい。

思いつきや妄想をそのまま宙ぶらりんにしておくと、わたしまで宙ぶらりんのままになってしまう。

もういい歳だし、チャンスを掴めるのなら掴みたい。

生死が関わると、生き残るための防衛本能のような、何かの能力が鍛えられたりするらしいけど。

そういう、自分にも当てはまるなぁと思えるような事実を見ても、
自分をなかなか認められない。

わたしは何に救われて今があるんだろう。
それとも死にかけたことなんて、実は一度もないんだろうか。

とか思ってしまう。


だからもうずっと、何かをカタチにしたくて悶々としてる。

何かをカタチにできたら、楽になれる気がするのに。。。


って、また抽象的になってしまった?
自分の文章が読む人にとって、どう感じるんだろうなぁって、いつも思う。

そこがわからないと、直しようもない。


本を読んだ感想は、自分の経験を書くというよりも、ずっと感じてたこととかを整理して書く。

何個かに記事分けたら書きやすいかな。

だけど、もし1冊の本にできたら。。。
それもまた、ひとつのカタチとして、わたし自身もまとまりそう。

なんて烏滸がましい(笑)


そしてもっと烏滸がましいのは
この本の著者様にお会いしてみたいなんて思ってしまったこと。

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