HACHI

noteは『わたし』を表現する場所。 おひとり様時間が好きな 【内向的で感覚派の行動派】 絵を描いたり|読書|お散歩|写真は撮るのも撮られるのも好き|手帳・文房具|手書きが好きなアナログな人

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最近の記事

謙虚さをいつも持ち合わせていたい

時々「読書家だ」と言われることがある。 読書家と言えるほどそんなに本は読んでいないので恐縮してしまう。 だけど、こうやって文章を稚拙ながらに書いていたりするわたしにとっては、そういう印象を持っていただけるのは光栄なことで。 欲を言えば、 「宮沢賢治って感じがする」と言われたい。 岩手の花巻には一度は行きたい。 以前、三島由紀夫の話になったことがあった。 作品自体は読んだことがなくても、名前を知っている人は多いと思う。 礼節は大事だ。 「親しくなればなるほど」というのは

    • なぜ宇宙はつくられたのか。生きる意味とは。

      谷川俊太郎さんが亡くなったと、昨日のニュースで知った。 とても残念だ。 ちょうど先日、急に詩が読みたくなって、読み返したばかりだった。 人が亡くなる。 誰かが亡くなる。 宇宙にはそんなことは全く関係なく ただ歩みを止めることなく進んでいく。 わたしの中の細胞のひとつが死んだって、わたしはそんなことにも気づかずに、気にもせずに生きていくように。 わたしはこういう人だから、 昔、知人に 「きっと今世は見送る役割なんだよ」 なんて言われたことがあるけれど。 そうじゃな

      • わたしの秋は時々別れの季節

        昔やってた 『あなたのイメージをインスピレーションで描きます』 その人のやりたいことや使命のようなもの、 いわゆる『可能世界』のようなものを描いてる、と言われたことがある。 そういうものが、わたしには『みえている』らしい。 だからなのか、 仕事でお客様のところへ行ったとき 「この人からお仕事くるのは最後になるな」とか 「このワンちゃん、きっと最後のご挨拶してくれてるんだな」とか なんとなく訃報の連絡来そうだから、スケジュール空けておこうとか 『死』をみることもあるし

        • 過去2.5回ほど終活したことがある

          2.5回というのは、なんとも半端な数字ではある。 『0.5』なのは、2回目の終活の延長のようなものだったから。 だから2.5回目か。 1回目は20年くらい前に。 2回目は6年くらい前に。 手帳や日記、学んだことのノートのすべてを処分した。 2.5回目は、これまでに描いた絵をすべて処分。 基本、自分にとって大切なもの、好きなものしか身の回りに置かない。 あるのは絵を描く道具と本、文房具、ノート、カプセルトイ(笑)、楽器類くらい。 それに少しの洋服。 今までは、手

          最近、割と真剣に日本とチェンマイ🇹🇭の二拠点生活ができないかと考える。 何が、どこが好きなの?何がしたいの?と聞かれたらわからないけど、初めて行って一目惚れしてしまった。 簡単ではないと思うけど、フリーランス、ネットを使ってお金、得られないだろうか。。。

          最近、割と真剣に日本とチェンマイ🇹🇭の二拠点生活ができないかと考える。 何が、どこが好きなの?何がしたいの?と聞かれたらわからないけど、初めて行って一目惚れしてしまった。 簡単ではないと思うけど、フリーランス、ネットを使ってお金、得られないだろうか。。。

          『音楽』というのは不思議なもので

          子どもの頃に聴いた曲 辛い、苦しいときに聴いた曲 みんなで歌った曲 音楽は人の心を揺さぶる。 リラックスもさせてくれる。 泣かせてもくれるし、やる気にさせてくれたりもする。 そして『あの時のあの記憶』が蘇ってきたりもする。 また懐かしんで感情が揺さぶられるんだ。 最近、おかあさんといっしょの懐かしい歌を歌った。 たくさんある好きな歌のうちの2曲。 『あのね、あきはね』はちょっと季節遅れになってしまったけれど。 そして『まんまるスマイル』は作詞作曲が中西圭三さんで、

          『音楽』というのは不思議なもので

          タイムトラベルは楽しい

          大きくて立派な美術館って素敵。 歴史を感じる建物だったり、建物自体がアートだったりして、重厚感があって。 空気もなんだか違う。 そこに飾られたアートの数々は、歴史的な作品だったり、有名な現代アートだったりして、 家に飾りたいと思っても、ゼロの数がおかしい、非日常的で異空間で。 そんな美術館へは、普段は着ないような素敵なお洋服で出かけるのもいい。 だけど街の小さなギャラリーも素敵。 少し手を伸ばせば手に入れられそうな絵が飾ってあって、 作家さんが在廊していたら話がで

          タイムトラベルは楽しい

          やさしい風がうたう やさしい光がおどる

          インスタ記事より。 「あなたがファンタジーだから」 「天然だよね」 これは割とわたしにとっては褒め言葉なのかもしれない。 ふわふわと かたちのないもの 自然のような自然体。 『無音を聴く』ときのような、輪郭、かたちをつくる線がぼやけて混ざり合う感じ。 かたちあるものは、いつか壊れる。 大切にしていても、ほんの些細なことで壊れることもある。 だからまるで、かたちのないもののように。 ぽよんって跳ね返せる、中身の詰まった柔軟さがあるといい。 わたしには、真夏の太陽は強

          やさしい風がうたう やさしい光がおどる

          光も闇も抱えながら

          アーティストだとか表現者だとか そんなふうに自分が名乗るなんて、まだまだ烏滸がましいと思う。 だから控えめに、今はまだ『表現したい人』にする。 いろんなところで、いろんなこと言ってるから、同じところで同じことを言ってたりもするんだけど、でも書きたいから書く。 ✼••┈┈••✼ いつの頃からだったか、 自分の絵をなんだか変えたくなった。 もしかしたら描き始めた頃から、そう思っていたかもしれない。 いつも綺麗に収まりすぎていて、もう少し枠からはみ出したいというか、 こ

          光も闇も抱えながら

          結果、自分を守ることにつながる

          この記事の最後の方に、 わたしは名前や顔を出さない方がいい というようなことを書いた。 表現する、自分を出す。 だからといって、すべてをさらけ出せるわけではない。 すべてをさらけ出せたら、どんなに楽だろうなんて思うけれど、それは結果、自分を守ることとつながる。 わたしには 『心が寂しくて拠り所を探している』 そんな人がもしかしたら集まりやすいのかもしれない。 言い方は悪いけれど、『メンヘラホイホイ』のようになってしまう。 なぜそうなるのか、わたしの発信が悪い?とか

          結果、自分を守ることにつながる

          最近嬉しかったことをひとつの記事に詰め込みすぎた

          先日の記事⇩ 昔から音楽が好きで音が好きで、 「上手になりたい!」 って思っていて、 だけどプロになりたいとかではなくて。 それでも「上手になりたい!」の中に、言語化できないものも含めて、いろいろな想いがある。 絵もそうだけど、「上手ですね」って言われたくてやってるわけではなく。 もちろん言われたら嬉しいけれど、目指したいものはそこではなくて。 ただ、こういう感覚の説明が難しくて、 「上手になりたい」 で済ませていたら、肝心なときに言語化できないってことに気がついた。

          最近嬉しかったことをひとつの記事に詰め込みすぎた

          まだ声を出すことは怖いし 音楽、歌、表現なんて程遠い。 だけど、この音域の自分の声が なんか少し好きかもと思えた。 物語、語りかけるように歌えたら なんて思ったりもする。 いつか人前でも普通に歌えるようになりたい。 https://stand.fm/episodes/6730c381c2f6c6ffc6422b46

          まだ声を出すことは怖いし 音楽、歌、表現なんて程遠い。 だけど、この音域の自分の声が なんか少し好きかもと思えた。 物語、語りかけるように歌えたら なんて思ったりもする。 いつか人前でも普通に歌えるようになりたい。 https://stand.fm/episodes/6730c381c2f6c6ffc6422b46

          ちょっと困った!

          以前にも似たようなことは書いているのだけど、改めて。 いつも試行錯誤というか、 こうしたらいいかもと、一時はしっくりきても、やっているうちに変わってくるものがあって、そのたびに手法も変えないといけないから困る。 そして今またその段階で、ちょっと固まりかけている。 それは 散らばったメモたちを、どう分類して、まとめて、ひとつずつの記事にしていくか。 思考の旅はいつも気まますぎる。 ひとつのところに留まることを知らず、勝手気ままに出かけてしまう。 ひとつのテーマから

          ちょっと困った!

          情熱のカケラを拾い集めたら

          先日、『台湾式足もみ』のセラピストさんがインスタで紹介されていた本を読んだ。 『いつかみんなでごはんを』蒼月はる 感想というか、自分の経験を含めて思っていたことや、本を読んで改めて感じたことなどをnoteに書き残しておきたいのだけど、 なんだかちょっぴり難しい。   出てくるものが多すぎて整理整頓が追いつかない。 そして結局、いつものように抽象的になりすぎてわからない文章になってしまいそう。 だけど、セラピストさんが 『きっと生命力溢れた文章が踊っているであろう一冊

          情熱のカケラを拾い集めたら

          成長は螺旋階段のように

          SNSとかいろいろ見すぎると、やっぱりいろいろ共感しすぎてしまうんだな。 共感してもいいんだろうけど、 それで支離滅裂みたいになるのは良くない。 というかこれって共感なの? 『わたし自身』にしてしまうというか、取り込んでしまうというか、 自分を形成する一部になってしまうというか。 だけど、発信するときはやっぱり『わたし』でいたい。 『わたし』がわからなくなるのは、やっぱり苦しい。 取り込みすぎると、副腎や肝臓のあたりが痛くなる。 溜め込みすぎて消化不良。 たとえ良い

          成長は螺旋階段のように

          時々、『無音』が恋しい

          音楽も聴くより演奏する方が、どちらかといえば好き。 子どもの頃からエレクトーン、クラリネット、ピアノを習って、進路は音大を考えた時期もある。 小学校でハーモニカやピアニカ、リコーダーを習えば、学校の行き帰りは吹きながら帰ってくるほどで、楽器がないときは歌ってた。 確か中学生の頃だったと思うけど、CDというものが出て、流行り物大好きな父がCDプレーヤーを買ってきて。 初めて買ったCDがクラシックだったんだけど、アホみたいに毎日聴いて、 アホみたいに口ずさんでた。 最近は

          時々、『無音』が恋しい