『わたし』と『HACHI』のはなし
知識があるからこその、この言葉な気もする。
アインシュタインが言うからかっこいいし、説得力がある。
『わたし』はいるようでいなくて、
いないようでいる。
今日は『HACHIとわたし』の関係性のはなし。
リアルな『わたし』を晒してしまえば、
『わたし』はどこからどう見ても女で、
どこからどう見ても年相応で、
どこからどう見ても、誰がどう見ても、どこにでもいる普通のただの人で。
オーラがあるだとか綺麗だとか、可愛いだとか。
そういうのはまったくなくて。
だけどそんな『わたし』を晒さなければ、わたしの頭の中はどんな『わたし』でもいられるんじゃないか。
わたしは、『わたし』を『固定』されたくなくて、わたしの世界、わたしの宇宙に名前を付けて分類してほしくない。
多分、いろんな名前が付けられて分類された『わたし』が出来上がるんだと思うけれど。
経験や感情、感覚は確かに『わたし』のもので、わたしは嘘は書けないし、思ったことや感じたことしか書けない。
でもそれは、もしかしたら空想かもしれないし、妄想かもしれないし、他の誰かかもしれないし、寄せ集めたものかもしれないし。
だけど、夢でも空想でも妄想でも想像でも何でも、感覚があって感情が動いたら、それはもう『わたし』になる。
夢も見えない世界も、現実との境界線がわからなくなる。
それが時々怖い。
感性と言っていいのかわからない。
でもそういう感受性のようなものの中で、いつもぐちゃぐちゃに溺れる。
そうやって行ったり来たりを繰り返す。
そこにリアルな『わたし』が入ってくると現実に戻されて、想像、創造ができなくなる。
「仕事にした方がいい」と言われるけれど、仕事にしたとしても、きっと最期まで『わたし』の苦しさからは逃れられないんだと思う。
だから『HACHI』が必要。
いい年してメルヘンでファンタジーで中二病で頭がおかしいんだと。
だからわたしは、あまり自分を出したくなくて、自分の写真とか今更ながら出さなければよかったなと思うこともある。
大してわたしを知らない人に、「こういう人だ」と勝手に固定されたくなくて、
誰かと比較されて勝手に評価されたり、
「こうだと思ってたのに」と勝手に期待されたりするのは、しんどい。
だから、リアルな『わたし』を知る人に、見せても大丈夫な人以外には『HACHI』を見せない方がいい。
『HACHI』は『HACHI』という別の人格として存在する。
誰かに
「綺麗だね」とか「美人だね」とか「スタイルいいね」とか言われたいのではない。
そういうのはどうでもよくて。
でも、心とからだが緩んだら、もっといろんな『わたし』で、いろんなところに行けるのかも…なんて淡い期待と好奇心。
そして、『HACHI』ではない『わたし』は、いつも笑顔でいたい。
誰かの記憶や認知の集合で『わたし』が作られるのなら。
心理学者の河合隼雄先生はこういう方で、作家の小川洋子さんは『私は先生のこの表情しか知りません』とおっしゃっていて。
『わたし』もそうでありたい。
そんなわたしを覚えていてほしい。
残せるものなんて何もないし。
本来『HACHI』は存在しなくていい人だから。
そのために顔を、表情を緩めたい。
河合隼雄先生の笑顔は本当に温かいと思った。
大山のぶ代さんの笑顔もずっと素敵だと思うし、やっぱりあの笑顔しか知らないなぁとも思う。
笑うと目がなくなっちゃうような笑顔。
だけど、こんな『HACHI』と『わたし』だから、昔からちょっと、リアルなみんなが集まる学びの場には入りにくい。
学びたいのにね、損してるなと思う。
『HACHI』は時々、トゲトゲもしているし、
いろんな『怒り』も『闇』も抱えている。
『表現は排泄するのと同じ』とよく聞くけれど、そうだと思う。
だけど表現は、『HACHI』というフィルターを通して、取り入れたもののカタチを変えて、また外へ放出される。
怒りの矛先はいつも自分だけど、自分を攻撃するではなく、
人や物に攻撃するでもなく、
絵や言葉、音楽という何かの『カタチ』にして昇華することができる。
真剣に自分と向き合って、心を洗うようなものだったり、思いっきり『我』を出すものだったり。
なんでいつもこんなに書き・描きたいんだろうね。
誰かの役に立つような情報でもない。
学んだことのアウトプットでもないし、論理的でもない。
意味があるわけでもないし、生産性があるわけでもない。
時間の無駄とも思える。
それでも書く・描くがとめられない。
頭の中がとめられない。
書かなきゃ、描かなきゃ、頭の中がバクハツして死んでしまいそうになる。
だからわたしは『生きるため』に書くし描く。
自分が正しいとは思っていない。
だけど間違っているとも思っていない。
わたしは、ただそういう鎖から逃れたい。
わたしの信念みたいなものなんてクソみたいなもので、ちっぽけだけど、正解とかなんてどうでもよくて、そっちのほうがクソだ。
今まで持てなかったありもしないほどのクソみたいな信念みたいなものを、それでも大切にしたいと思った。
(言葉悪くて申し訳ないけれど)
だから欲を言えば、noteもインスタも『HACHI』の作ったひとつの作品だと思ってもらえたらいい。
ただそれだけのもの。
やっぱり孤独だから、作品にしていくしかない気がする。
本当はわたしが行くべきところは精神科だったのかもしれない。
最近、地元で信頼できる精神科の先生と出逢えた。
息子がお世話になったのがきっかけで、多分わたしがお世話になることはないと思う。
だけど、その存在がお守りのようで心強い。
わたしの中の『HACHI』を意識でコントロールが難しい。
だからもしかしたら、体に触れること、
タイ古式マッサージなど、物理的なものに触れることで『わたし』と『HACHI』のバランスが取れるのかもしれないと最近思う。
『わたし』はセラピスト
『HACHI』は表現する人
という分類は、わたしにとって大切なのかもしれない。