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分からないままにしておく。『中陰の花』

カバーはおじさんっぽいし、文章も物語も惹かれなかったけど、内容がとても良い本でした。もやもや考えていたことを言語化してくれるので、読むとスッキリします。

玄侑宗久(2001)『中陰の花』文春文庫
第125回芥川賞受賞作

「最近禅宗に興味あるな〜」と思っていたらたまたま禅宗の本でした。

あらすじ

主人公・則道は臨済宗(禅宗)の僧侶です。
物語は、神通力を持つ老婆ウメの「5月27日に死ぬ」という予言をめぐって進んでいきます。

予言を阻止しようと科学的な立場から努力する医者。禅宗の知識には乏しいが、「霊感」のある妻・圭子。「新興宗教」にハマった石工・徳さん。
彼らがどのようにウメの死を捉えているのか。則道は禅宗という足場を通して、彼らとつながろうとしていきます。

スピリチュアル・宗教・非科学

『中陰の花』は2001年上半期の芥川賞受賞作なので、宗教を捉え直すことが今より大きな問題だったんだろうと思います。
作中にもオウムについての言及がありますが、スピリチュアルをスピリチュアルだと片付けないことが評価されたのかな。
「神通力」「新興宗教」は一つの「世界の見方」だと、否定も肯定も、理解もせず共にあること。

則道は、自分の世界に引き寄せて聴くことを諦めた。そして素直に、ただそのままに聴こうと思った。

(もろ文化人類学じゃん、、、)

「科学的」な言葉に縛られず、物事のつながり方を見出していこうとする筆者(=則道、としていいのかな、わからん)の営みは、人文学的だなと思いました。

そういうことばかり習っている気がする、、、。


プラクティカル

世界について、分からないまま、とりあえず「決める」ことが、生きていくこと。

(インターネットに関して)
則道は情報の海の中で眩暈をおぼえた。多くは真剣に自分の信じる世界を描いているようだ。それは間違いない。しかしそれぞれの描く世界を統合しようとしても、そこには全くと言っていいほど整合性がなかった。

そうだ、禅の考え方で行くしかないのだ。

世界観とは、所詮は全貌を見せてくれないこの世界を切り取って観るためのナイフにすぎない。

作中で則道は妻から「あんたはプラクティカルや」といわれていますが、『中陰の花』には日常の家事や会話や儀式のルーティン、そういったひとつひとつで「分からない世界」を規定していく営みが書かれています。

これについては、最近子どもの頃の恐怖について考えていたことが近いなあと思いました。

子どもが自由だというのは(少なくとも私に関しては)嘘です。幼い頃、自分で判断できることはあまりにも少なく、ルールを破ることや初めての出来事や大きな物は非常な恐怖でした。

右も左も分からない世界の前で、私は不自由だったんだと思います。「なぜ空は青いの?」「なぜ地球は丸いの?」ひたすら「なぜ?」と質問ばかりして親に困られる時期もありました。

「なぜ?」については今もあまり分からないけれど、私は経験の中で、自分の身体の動きを「決め」てきました。それこそ「プラクティカル」に。世界との付き合い方を規定していくことで、むしろ私は自由になれたんだと思います。

だから、その「プラクティス」の内容を変えることで、世界の見え方は変わりうるし、見たいように矯正していくことはできると思っています。意識的に「プラクティカル」でありたい。

#コンテンツ会議 #エッセイ #読書

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