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時の羅針盤

はじめに


【解釈】
1. 言葉や文章の意味・内容を解きほぐして明らかにすること。また、その説明。
2. 物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること。


 人は様々な『解釈』をします。論理的、感情的、道義的、主観的、俯瞰的、抽象的、多角的、局所的…など、人によって物事の捉え方は違います。それが多種多様な人格を形成することにつながっている反面、意思の疎通を困難にすることにもつながっています。

 多様性のある世界では、他人の目を気にせず自分らしく生きることができますが、個人主義になり他人との関わりが弱くてもかまいませんので、『つながり』『社会性』『協調性』などは重要ではなくなってしまう面があります。
 かといって『つながり』などを重要視するあまり、自分らしさがなくなったり、他人と同じ価値観や思想になってしまうのは、単細胞生物のようで【人間】らしくありません。

 多様性と統一性の相反する矛盾した2つの狭間で、【人間】が磨かれ成長していくのでしょう。

 【時間】が前にしか進まないことを《時間の矢》と表現しますが、もしかしたら成長や進化、発展を『促している』のかもしれませんね。時間が進むにつれて『退化していく』ことがあったら、それこそ文字通り『未来がない』みたいですから。

 過去から未来に向かって進んでいく社会には【法律・規則】があり、人の行動を抑制・制限・禁止していますが、それらとは別に【倫理観・良識・道徳】といったものも同じような働きをしています。この2種類は『強制力』が違います。

 強制力の違いで分かりやすい例をあげると、女性用トイレに3歳の男の子が入っていても気にする女性はほとんどいないと思いますが、成人男性なら問題になりますね。
 要は、『子供は許されるけど大人は許されない』ことがあるってことです。
 【法律・規則】は《行動の抑制》
 【倫理観・良識・道徳】は《心の抑制》
と言い換えてもいいでしょう。

 社会で経験することの1つに「言われた通りにしたら、文句を言われた」というものがあります。本人からすれば『意味不明』だと思いますが、この世の中には【不条理なこと】がたくさんあります。その原因は、子供は許されるけど大人は許されないことを『許してしまった』から起こる、子供のままでい続けることを『許してしまった』から起こる、あるいは、様々な理由で《大人に成れなかったから起こる》のかもしれません。
 法律上、《身体》の年齢が満たされると自動的に『大人』になりますが、《心》の方はなかなかそういうわけにはいかないようです。

 ところで、法律や良識があるのは【人間界】ですが、【自然界】にも『法則』があります。その中に《エントロピー増大の法則》というものがあります。簡単に説明するなら、

 整理整頓された状態は、ぐちゃぐちゃの状態になっていく

というものです。この法則を物理学者は『エントロピーは増大することはあっても減少することはない』法則だと認識していると思いますが、1つ忘れていることがあります。それは、『この法則は2つの事象の間で入れ替わることがある』ということです。

 子供はあらゆるものを『ぐちゃぐちゃ』にします。というか、子供そのものが『ぐちゃぐちゃ』と言えます。社会の規則や良識が『通用しない』からです。
 位置を定めようとすると、すぐにいなくなり、動いている速度や軌道を予測しても全然計算通りの動きはしません。まるで量子力学の不確定原理をマクロレベルで実行しているかのようです。いやいや、量子力学はあくまで『ミクロの世界』の話なんですよ。どんな原理がありマクロの世界でやっているのか、やれているのか、『謎の生物』と言わざるおえません。

 そんな謎の生物ですが、大人に成長していくにつれ少しずつ『整理整頓』を覚えていきます。つまり【エントロピーを減少させていく】ことができるようになります。エントロピーの視点で言えば、

 エントロピー減 ➡️ エントロピー増
 ↖️     ↙️
 大人 ⬅️ 子供

 エントロピーそのものは増大するしかないのですが、別のものと〔入れ替える〕ことにより減少することがあるのです。

 《エントロピー増大の法則》は、数ある自然界の法則の中で【時間は前にしか進まない=巻き戻せない】ことを示す《唯一の法則》だと考えられているようですが、時間を巻き戻すまでもなく、エントロピーを減少させるくらいなら、他のものと〔入れ替える〕だけでできます。人の《成長》と入れ替えればいいのです。

 この〔入れ替える〕という操作は、いろんなモノやコトでできます。

 人間の『理性』は、自然界の法則に【従う】のか【逆らう】のか。
 人間の『心』は、自然界の法則に【従う】のか【逆らう】のか。

 さて、ではそろそろ本題にいきましょう。物事を理解しようとすると、それに近づいて見ることも必要ですが、【近づくほど見えなくなる】ことがあるのかもしれません。

 止まっているのは、時間『ではなく』…

《神のまにまに》




I. 優しさ と 甘さ〜Balance Syncs the Gravity〜


 α. 自分に甘くて他人に厳しい人は、自分の成長を邪魔している。
 β. 自分に厳しくて他人に甘い人は、他人の成長を邪魔している。

 『優しさ』と『甘さ』は全然違うものです。 本当に優しい人は甘えさせません。 なぜなら、人は甘えると【赤ちゃん化】することを知っているからです。

 他人に厳しい人は嫌われやすいところがありますが、『他人の成長を促す』との点においては必要なことだと思います。では、なぜ嫌われてしまうのか?
 理由の1つに『人には「やれ」と言うけど自分はやらない』ことがありますね。それは他人から見ると《α》の形に見えるからです。

 他人に甘い人は好かれやすいですが、《β》のように『他人の成長を邪魔する』ことになります。好かれるのは「この人はなんでも許してくれる」と思われるからでしょう。しかし、人の悪いところを指摘しないので改善されていきません。ですので、成長が止まってしまいます。

 《彼方を立てれば此方が立たず》ですね。

 本当に【優しい人】は、他人の直すべきところとそのままでいいところを、はっきりと見極め、導ける人のことだと思います。

 直すべきところを指摘し、否定することは『拒否』です。
 そのままでいいところは、肯定するので『許容』です。

 『拒否』と『許容』。この2つを天秤に乗せてバランスがしっかり取れている人が、本当に優しい人であり、人の歩む道を指し示すことができるのでしょう。

 社会では昔から『感謝することが大事』と言われています。私もその考え方には賛同ですが、ちょっと気になることがあります。
 この言葉の意味は『感謝される』を『感謝する』に【逆転させる】ことを前提としています。そしてそれは『主観』によってなされることであって、間違っても『客観』ではありません。

 たとえば『自分が 他人の仕事を 手伝った』とします。

 この時、自分は『感謝される側』であり、相手が『感謝する側』ですね。そしてこれを【逆転させる】と、自分が『感謝する側』であり、相手が『感謝される側』になります。
 では、『手伝った自分』が『感謝する側』になり、『手伝ってもらった相手』が『感謝される側』になるとは、どういうことなのか? これは、

『手伝った自分のこと』を、相手が『認めてくれた』と解釈するとそうなります。

 自分がしたことに対して、『感謝された』のであれば、自分の行動を相手が『認めてくれた』ことでもありますので、それに対して『感謝する』のです。

 ここで気づいた人もいるかと思いますが、実はこの形は『手伝ってくれた子供に対し、感謝してあげるお母さん』と同じ形なのです。

 つまり『自分が子供』であり、『相手がお母さん』になりますね。『大人』であれば、逆転させるとこの形になってしまうことは、ほとんどの人が分かっているでしょう。この解釈だと、自分は大人ではなく『子供』ですね。
 ですので、感謝するかどうかは『相手の判断』であり、間違っても『感謝することを強要』したりはしません。なぜなら、手伝うことは『主観』で行ったことであり、『客観』によって行われたことではないからです。手伝うことはあくまで《自己判断》によってなされています。

 子供を教育している段階であれば「感謝しなさい」と教えることもあるでしょう。子供はまだ、【相手の行動が「子供のため」なのか「相手のため」なのか】の、『判断ができない』からです。
 ですので、親からすると相手の行動が『子供のため』であれば「感謝しなさい」と教えるでしょうし、『相手のため』であれば《親自身が盾になり、子供の代わりに感謝を伝える》でしょう。
 【自己満足の感謝の押し付け】を『子供』に対し《教育の名目》でやってしまう大人もいますので、注意が必要ですね。ここは親(大人)がすることです。

 『客観によって手伝う』ことを、「手伝ってあげれば喜ぶはずだ」との《先入観》に基づいて行うことがあります。この場合、手伝うことはその人の《先入観》によってなされていますので『主観』と言えるはずです。つまり、『客観によって手伝う』のではなく、『主観によって手伝う』のです。にも関わらず、手伝う人は『客観だと思い込んでいる』場合がありますね。

 そしてその場合、『感謝されない』こともしばしばです。これは『仕方がない』と言ってしまえばそれまでなんですが、あえて踏み込むのであれば、【自分が《してあげたいこと》は、相手が《してほしいこと》とは限らない】からですね。

 自分が《してほしいこと》を、しない人に対しては感謝はしませんし、まして、感謝することを強要してきたら、不快に感じます。それなのに『感謝しなくてはならない・感謝するべきだ・感謝しないなんてあり得ない』と思い込んでいる人たちがいます。
 つまり、『相手の気持ちは関係なく、してくれたこと全てに感謝しなくてはならない』と思い込んでいるのです。その場合、いわゆる『ありがた迷惑』や『余計なお世話』にさえ、感謝しなければなりません。
 手伝ってくれた子供に対し、感謝してあげる『お母さん役の強要』になります。

 こういう人たちは「地球の2000億倍の重力がある【中性子星】にでも行って潰されてしまえばいいのに」と思ったりするのですが、もし自分がしたことを感謝されなかったり迷惑がられたりしたら、行動を改めるかその場を去ればいいだけなのです。

 感謝とは、《押し付けるもの》ではなく、《引き出すもの》です。

 先ほど、【相手の行動が「子供のため」なのか「相手のため」なのか】と言いましたが、『手伝う』『助ける』『気遣う』など《相手を慮る行為》には2つの性質があります。

 α. 困っている相手を助けることで、『相手』が満足する(大人の行為)
 β. 相手を助けた自分が認められることで、『自分』が満足する(子供の行為)

 表面的な行動はどちらも《同じ行動》になりますので、この2つを行動から見極めるのは難しいのですが、だからこそ【心の中】ではしっかり区別し自覚している必要があります。

 『自分でするのが当たり前』と考えている人は、してくれたことに感謝し、してくれないことには何も思いません。
 『他人がしてくれるのが当たり前』と考えている人は、してくれたことには何も思わず、してくれないことに不満になります。 

 つまり、【自分が感謝することが当たり前】であり【他人が感謝してくれるのが当たり前】ではないのです。

 自分のするべきことをしないで、他人に《してあげる》ことは『犠牲』です。
 自分のするべきことをした上で、他人に《してあげる》ことは『奉仕』です。

 他にも、《してあげる》との言葉は【慈しみ】であるのと同時に【傲り】でもあります。

 感謝するべきときに感謝するのは、してくれたことが【慈しみ】だからです。
 感謝するべきときに感謝しないのは、してくれたことが【傲り】だからです。

 さて、なにかが〔入れ替わって〕いませんか?




II. 人間 と 人形〜Singularity Sings the Parity〜


 人間の感情には《喜怒哀楽》があります。人間の『感情』なので、細かく言えばもっとあるのですが、大きく分けるとこの4つですね。
 他の動物と違い、4つの感情が全て揃っているのが【人間】です。《喜楽だけ》とか《怒哀だけ》なのは、人間ではなく【人形】です。

 最近では【AI】の発展により、『知能』では人間に近づいてきた《機械》があります。囲碁や将棋は「もう人間はAIに勝てない」と言われるほど進化しています。AIが、自分で自分以上の知能を持つAIを生み出す【シンギュラリティ】も心配されているようです。

 では『感情』の面ではどうでしょうか。シンギュラリティは『知能』の話です。『感情』の話ではありません。人間を超える知能を持つAI(機械)は、人の『感情』を理解し、AIでもその感覚を持つことができるのでしょうか。
 いつかはそんなAIができるかもしれませんが、『感情』の面においてはまだまだ時間がかかりそうです。

 さて、『感情』といえば「不平不満は言ってはいけません」「愚痴を言わないように」など、『負の感情』を【否定する】ような言説を見ることがあります。
 確かに『不満を言わないこと』『愚痴を言わないこと』は大事だと思いますが、そのことと感情を【否定する】ことは別々に考えなくてはいけません。

 『負の感情』とは、喜怒哀楽では『怒哀』の部分だと思います。人は嫌なことをされたら『怒』ったり、『哀』しんだりします。これが【人間】です。
 嫌なことをされているのに怒らず感謝したり、哀しまず不満を言わないのはただの【人形(機械)】です。『感情がない』ので、嫌なことを嫌なことだと《認識できない》のです。

 常に笑顔を絶やさない人のことを観音や菩薩のようだと例えますが、観音や菩薩のような人物になりたいからといって、『喜楽』ばかり重視して『怒哀』を否定するようなことはしてはいけません。なぜなら、自分の感情を否定する人は、他人の感情まで否定し、平気で踏み躙るようになってしまうからです。

 自分の感情を大切にできる人は、他人の感情も大切にできます。
 自分の感情は大切にしないのに他人の感情だけ大切にしたり、自分の感情だけ大切にして他人の感情を大切にしないことは、前者は『卑下』、後者は『不遜』と言います。どちらも【人間】として未熟と言えるでしょう。

 そして、自分が否定した『怒哀』は、《他の誰かに移る》ことがあるのです。自分では否定してる『怒哀』を他人に移すには、たとえば、赤ちゃんのように大声で喚き散らすことなどをすればいいのです。
 このとき『言葉そのもの』はなんでも構いません。感謝を伝えるための言葉であっても、言葉の【ニュアンス】を変えればいくらでも『負の感情』を入れることができます。というか、そもそも赤ちゃんが発する声は言葉ではありませんね。

 嬉しいなら歌えばいいし、楽しいなら踊ればいい。哀しいなら泣けばいいけど、『怒り』は怒鳴るか暴れるかになります。子供は哀しい時にも暴れたりしますが、子供ではない大人であれば、泣くことも暴れることもできないので、大声で喚き散らすのです。『負の感情』を他の人に《移す》ことになっているのですが、それに本人が気づいていなかったりしますね。

 これが【負の連鎖】の始まりです。相手が拒絶しても、そもそも喚いているので相手の話なんか聞いていません。一方的に『負の感情』を押しつけるので、相手からすればハッキリ言って「クソウザい」わけですが、その「クソウザい」との感情もまた『負の感情』ですので、【負の連鎖】になります。
 自分の『負の感情』が喚き声によって相手に伝わり、連鎖が起きるのです。

 そもそも『喜楽』の感情は認めるのに『怒哀』の感情は認めないことが、《人間ではない》のですよ。機械や人形です。『正の感情』だけ吐き出す機械。『負の感情』は出てきません。出てきたものは全て押し殺しているか、別の言葉のニュアンスを変えて喚き散らしているからです。
 そうなると、周りにいる人は【子供の駄々をあやすお母さん役】のようなことをやる羽目になってしまうことがありますね。

 『喜楽』だけを出す《機械仕掛けの人形》になってしまうのです。『負の感情』がない人間は、他の人から見ると【異常】に映ります。
 昔、漫画の『るろうに剣心』に出てくるキャラに『瀬田宗次郎』という人物がいたのですが、喜怒哀楽のうち『楽』以外の感情が欠落している人物でした。幼少期のトラウマからそのような人格になったそうですが、現実の世界にあのような人格の人がいれば「何か心に問題を抱えているな」とすぐに分かるでしょう。

 『喜楽』は、自分が楽しんだり喜んだりすることはいいと思うのですが、それを《共有》しようとするあまり『押し付ける』人がいますね。
 相手がどんな心理状態かは『知ったことではなく』て、自分が楽しいのであれば、他の人も『楽しくなっていなければならない』かのように押し付けるのです。これは、【他人の感情を否定する正の感情】です。その結果は【負の連鎖】が起きます。
 相手からすれば『自分の感情を否定されている』のですから、当然『拒絶反応』が起きます。しかし、拒絶されているにも関わらず、さらに強引に押し付けるようなことはしてはいけません。
 その姿はまるで、【お母さんに受け入れてほしい子供】のように見えています。

 このように『喜楽』も『怒哀』も、他人に移すことは【なすりつける】こととも言えます。なすりつけられて喜ぶ人がいるのでしょうか。

 泣こうが喚こうが、世界の中心で叫ぼうが、届かないものもあるのです。

 人の感情は正の方向にも負の方向にも振れます。ちょうど『振り子』のようですね。そして、【心の振り子】は止まりません。それが止まることは《心が止まる》ことになりますので【人間】らしくありません。心は常に移り変わっていくことが自然なことだと思います。『振り子時計』は、振り子が振れることで時を刻んでいきますよね。その中で、少しづつ【芯】となるものを紡いでいくことを『成長』と呼ぶのでしょう。

 今まで、自分は『感情の共有』をしていたのか、それとも『感情の強制』をしていたのか。自分の後ろに付いてくる人がいないなら【間違った道】かもしれませんが、新しい《これからの道》を開拓しているとも言えます。
 しかし、新しい道は先が見えません。さらに、これまで誰もその道を通らなかったのは、『その先には何もない』ことを『誰もが知っているから』との可能性もあります。さて、困りましたね。誰もが迷うことでしょう。行くか退くか。
 人は迷うと立ち止まります。足がすくんで、なかなか一歩目を踏み出せなくなるのです。

 ところで、ずっと前に『止まった振り子』は、もうこのまま動かさないつもりですか…?




III. 矯正 と 強制〜Pendulum Slings the Arrow〜


 未だに《人前で激しく叱責する》ことをやる人たちがいるようです。昭和時代の【化石】のような文化ですが、本来、この行為の目的は『人前で叱られ、恥をかくことにより反省を促し、自身で行動を改めていくため』のものでした。

 しかしこれは、『叱っている内容が正当なこと』だった場合に限ります。『理不尽なこと』で人前で叱られても、反省なんかするわけがありません。それどころか、叱られている人が反抗して『意固地』なることもあります。まったく意味がありませんね。
 ところが、この『人前で叱る』との形だけが残ってしまい、叱る内容が『理不尽なこと』にも関わらず、やり続けている人たちがいるのです。

 とにかく「人前で怒鳴りつけ、大声で叱ることが大事なんだ」と、思い込んでいるのでしょう。その状況を【他人の目】から見たときに、どう映っているのかまでは考えが及んでいないようです。

 『人前で叱る』行為は、他人の目から見ると【公開イジメ】に見えることがあります。特に、大勢でよってたかって一人を叱責しているような場合はなおさらそう見えます。そんなことを『大人』がするわけがないのに、いくつになってもやり続けているのは、精神的に《子供のまま》だからでしょうか。

 A. 恥をかくことで人格を【矯正】しているのではなく、
 B. 恥をかくことを【強制】しているだけです。

 ここで《手段が目的に変化する》ことが起こっています。

 『人格を矯正する』ことが【目的】であり、『恥をかく』ことは【手段】です。それなのに B では『恥をかく』ことだけを強制しているので、『恥をかく』ことが【目的】になっているのです。
 『恥をかくことを強制された』ら、そりゃ誰だって人格は『歪む』と思います。本末転倒とはこのことですね。
 本来、人格を矯正するために恥をかいていたものが、恥をかくことで人格が歪むのですから、まったく意味がありません。『逆効果』です。

 このように〔入れ替わる〕ことは、他にも『他人事を自分事、自分事を他人事』として捉える考え方もあります。この考え方の根っこにあるのは、

 『他人が困っていたら自分のこととして助けたり、自分の幸せは他人のおかげだと感謝すること』なのでしょう。

 なかなかいい感じに【性善説】が根っこにありますが、これを『逆』にすると、

『自分が困っていたら他人のせいとしてなすりつけ、他人の幸せは自分のおかげなのにと不満を抱くこと』になります。

 簡単に『逆』になります。「それは性格の問題だ」と思うかもしれませんが、そんなに単純な問題でもないような気がしています。というのも、例えば『仕事』をテーマに言うなら【責任感があるかないか】だけでも、出来事に対しての【解釈】が変わってくるからです。

 ほとんどの会社が『計画』を立て実行し、その後に『結果』を確認するとの流れで仕事をしていますね。そのときに、企画や計画が『正しい』ことにするために、実行した『結果』を、計画に合うように修正することは【矯正】ではなく【強制】です。よくある『サービス残業』は、無茶な計画に合わせるために現場が【強制】されたと言えます。つまり、

 現場の結果に合わせて、計画を【矯正】するのではなく、
 計画に合わせるために、現場を【強制】しているのです。

 有名なフレームワーク【PDCAサイクル(計画→実行→評価→改善)】で、

 『経営層』が計画し、『現場』が実行し、『経営層』が評価を下し、『現場』が改善する。
 このような場合、最後の【改善する】に関しては2つの可能性があります。 

 1. 現場の実行力が足りてない → 研修などで補習する
 2. 経営層の計画に無理がある → 問題点を修正する

 この2つです。個人的には、現場で働くことが多かったのでどうしても現場の肩を持ちたくなってしまうのは否めないのですが、どちらにも間違っている可能性はあるのです。実際には『計画』の段階で現場の意見を入れると思います(本当に入っているのか疑わしいことも多々あります)が、《決定権》を持つのが経営層なのであれば計画の責任は経営層にあります。
 私の好きな言葉ですが、物理学者のリチャード・ファインマンは、

あなたの理論がどんなに美しいか、あなたがどんなに頭がよいかは関係ない。  実験と合わないのなら、あなたの理論が間違いだ。

宇宙はなぜ美しいのか 村山斉

と言っています。これを仕事に言い換えるなら、

【あなたの『計画』がどんなに完璧か、あなたがどんなに頭がよいかは関係ない。 『結果』と合わないのなら、あなたの『計画』が間違いだ。】

と、なります。
 かつてニュートンは、宇宙には『絶対時間と絶対空間』があるとし、のちのアインシュタインも『静止宇宙(宇宙は収縮も膨張もしない)』を考えていましたが、これらは【アインシュタイン自身が生み出した理論】によって覆されましたね。
 「なんで計画通りの結果が出ないんだ?」となることがありますが、それはあなたが望んでいる目的がただの『願望』だからです。『願望』なのですから、叶うときもあれば、叶わないときもあるのですよ。

 確かに現場には、ズルをしたり誤魔化したりサボったりしている人もいますし、すぐ他人のせいにする人もいます。散々見てきました。
 上司がいる時はニコニコしているのに、いなくなった途端急に横柄な態度に変わる人や、営業中ずっと喚き散らしている人もいます。「ジャングルの野生動物みたいだな」と思いますが、お母さんにでも相手にしてほしかったのでしょうか。どちらにしろ精神的に『子供のまま』です。
 そんな人たちが《役職》に就いていたりしますから、どうやら世の中は『ハードモード』になっているようです。

 ただ、中には「もしかして、この人は何かの障害を持っているのかな..?」と感じる人たちがいることも事実です。つまり、障害があることを隠したいがために、その仕事ができないことを誤魔化したり、他人のせいにしてしまう。自分自身からは言いだせないこともあると思うので、こちらが【察する】必要があります。あるいは、障害があることを本人さえも『自覚していない』のかもしれません。
 本人と話して確認したことがあるわけではないですし、私は専門家でもありませんから、あくまで推測の域を出ませんが… 

 このような人たちを『発達障害グレーゾーン』と称したりもしますね。現場だけで対応するのはさすがに無理があります。常時現場に、精神に関する専門家がいるわけではありませんし、一般人でもそういった知識のある人がいるわけではありませんから、【会社】として対応するべき課題だと思いますよ。

 《過去と同じこと》をしていては、永遠に解決しない問題だと思います。

 このようなことがありますので、経営層と現場のどちらに問題の原因があるのかを見極めるのは難しいでしょう。ただ、言いたいことは、計画がうまくいかない場合の原因を探すときには「どちらの可能性も考えてください」ということです。

 自分の後ろに付いてくる人がいるなら【正しい道】と言えますが、過去から続く『これまでの道』を繰り返しているだけかもしれません。同じことを繰り返すと、同じような結果が手に入ります。しかしそれは『成長しているか』と問われると、一概にはそう言えないところがあります。
 成長させるつもりで過去と同じことを経験させるのは、一定の成果は上がると思いますが【個性の否定】にもつながっています。過去と同じことをやらせるので同じ『矯正』を受けることになるからです。【量産型製品】ですね。個性がありませんので『新しい道』が生まれにくいのです。その結果、いつまで経ってもみんなで同じところを回ることになります。

 クルクルと針が回る『狂ったコンパス』では、どこにも行けません。そんなときは、星を詠んでみてはいかがでしょうか。




おわりに

【事象】
1. ある事情のもとで、表面に現れた事柄。現実の出来事。現象。
2. 数学で、試行の結果起こる事柄。例えば、さいころを投げるという試行の
結果からは一から六の目のどれかが出るという事象が起こる。


 いや、あのね、『良い面を見る』って考え方は大事なのよ。誰だってそうしたいやろうけど、良い面を見ることを、悪い面を『直さなくていい』みたいに捉えることがあるやんか。
 なにかの障害があって直せないなら分かるけど、そうじゃないのに直さないことは『子供のままでいい』ってことになるやん。たとえば、障害があって片付けられない人がおるけど、だからといって障害のない人まで片付けなくていいみたいになるとかね。それはダメよね。

 なんでこんなことになるんやろか…日本は『性善説の国』やからなのかね。世の中に【奇妙な文化】があるよな。『みんなで片付けられなくなれば、みんな仲間だよ〜』みたいな。やからそれ、『みんな子供』ってことやで。あかんやつやで。

 社会では『忖度』『気づかい』『慮る』みたいなことをするやんか。じゃあその【源流】って何かなと思って考えてみたけど、これって『言葉を使わない意思伝達』やん。一言で言うなら【テレパシー】よね。超能力やん、これ。

 常人にそんな超能力なんか使えるわけないし、何でこんな文化ができたのかなと考えを巡らせて時間を遡っていくと、人が成長していく中で、ある時期に『あ〜、確かにこの時期にはテレパシーが使えんとヤバいかもな』と思う時期があった。

 それが【赤ちゃん】の時期。【言葉が使えない】時期。

 赤ちゃんは言葉が喋れんのやから、自分の意思を伝えることができんわけよね。やき、その時期は『親』の方が【気づいてあげる=してあげる】必要があるわけよ。赤ちゃんが言葉で伝えんくても、親の方が気がついてくれる必要があるわけや。

 つまり、社会での『忖度』なんかは【言葉が使えない赤ちゃんに対しての、親の対応】とも言えるわけよ。
 忖度される方(上司)が『赤ちゃん』で、忖度する方(部下)が『親』ってことやん…いやキショい!!

 「逆や!」って言いたくなるわそんなん。でもね、この文化は昭和からず〜っと続いとるやろ。まぁそう簡単に覆せんのやろうけどね。
 こういう『余計な気づかい』みたいなのが、会社の成長を阻害してるんやろな。

 『忖度される』ってことは、『子供扱いされる』ってことと同義。『気づかい』やなくて『子供扱い』なんよな。

 子供扱いされることを、恥ずかしいと思わんのやったらそれこそ「恥を知れ!」って話よね。「お前らこそ人前で恥をかいてこい!」って言いたくなるわな。
 現場でやってきて一番思うのは、上司や年上に
 『気を使うから遅くなる』
 『指示を待たせるから遅くなる』
 『喚き声で気が逸れて遅くなる』
 こういうのがあるのよね〜。部下や後輩が遅くなる《原因》は【自分自身】ってことやな。大声で喚き散らして「なんでお客さんが来ないんだ!?」ってなっとる人もおったけど、お客さんが来ない《原因》は【自分自身】やで。

 ただね〜本文でも言ったけど、『しゃべるのが苦手』『話すのに時間がかかる』みたいな【障害】もあるのよね。話せない原因が《子供だから》と《障害だから》の2つあるのや。
 【障害】で話せないのであれば、現代の医学やとまだ治せんものもあるき《テレパシー文化》、つまり『察する』ってのが必要やけど、それを利用して常人が【赤ちゃん化】したらいかんやろ。

 本文中のPDCAの件りで計画から結果の改善までの話をしたけど、時系列で言うなら『計画』ってのは【先にやったこと】、『結果』ってのは【後でなったこと】よね。

 A. 『計画』に合わせて、『結果』を変える ってことは、
  【先にやったこと】に合わせて、【後でなったこと】を変えること。

 時系列の方向は【進む】となる。んで、

 B. 『結果』に合わせて、『計画』を変える ってことは、
  【後でなったこと】に合わせて、【先にやったこと】を変えること。

 時系列の方向は【遡る】になる。

 【進む】と【遡る】が同時に起こると《時間が止まる》のよ。「なんか仕事が進まないな〜」って思うときはこうなっとることがある。要は、お互いがお互いに「どっちに合わせたらいいのか分からなくなっている」のや。
 手品の『トリック』みたいに結構気づかん人がおるな。時間が止まったら何も進まんなる。《時間が止まる》ってのが手品のタネなんですよ、ワトソンくん。

 正と負を足すと『0になる』のと同じように、【進む】と【遡る】が相殺されると《時が止まる》。

 狂ったコンパスはクルクル回るだけで、方角を示さない。こんなときは単純に、『コンパス無し』で方向を決めれば良いだけですな。
 間違ってるのは『計画』か『結果』か。A なら現場を改善して、B なら経営層を改善すること。どっちを改善するのか、どちらも改善するのか。

 やる前から正解が決まってる…『試験の答え』はやる前から決まってる。
 やった後に正解が決まる…『試合の勝敗』はやった後に決まる。

 昔、【テストばか】って言葉があったけど『試験には強いけど、本番には弱い』みたいな意味で使われとったな。要は、『答えが決まってるもの』は簡単にこなせるんやけど『自分で答えを出してみ』って言われると全然できんなるんや。これをこじらせると勝敗の決まっとる【八百長試合】みたいなのしかできんなる。今の社会ってそんな感じよね。

 子供の頃に『結果を先に求めるな』って教えられたことあるやん、みんな。今はそんなことは教えてないんやろかね。なぜなら結果が先に決まってるから…?

 (( 時の羅針盤は回らない ))

 「計画は完璧だから、改善するのはいつも現場の方だ」と思っとると、いつまで経っても問題の《原因》は解決しない。
 「現場は必死にやってるから、本社の計画がおかしい」と思っとると、いつまで経っても問題の《原因》は解決しない。

 『問題』は、いつも【目の前】にある。やけど、その《原因》は目の前にあるとは限らない。【後ろ】をふり返ってみたら、なにか見つかるかもね。

 問題が解決しないってのは、『時が止まっている』とも言える。
 人が生きていく上で【折れない心】は大切なことかもしれんけど、一歩間違えると単に【成長しない】だけになってしまうのや。
 人の成長に必要な『磨くこと』とは、『削ること』でもある。磨いたり削ったりしながら、少しずつ成長していく。

 (( 心の振り子は止まらない ))

 心が折れない人って、ほんのちょっと削られることにも過剰に拒否するところがあるけど、それって心が折れないん『じゃなく』て、単純に《間違いを認めたくない》だけやろ。【芯】が強そうに見えるだけで実は脆い。やから、必要以上に守ることになる。結果、何も磨かれないし削られないから《子供のまま》になる。
 意思が強いことを『ブレない(=動かない)』って言ったりもするけど、機嫌を損ねた子供がその場から一歩も動かなくなるのと同じやん。言わんだけで周りにはそういう風に見えとるで。

 指示がコロコロ変わる上司や、右往左往する部下は『狂ったコンパス』やし、
 融通のきかない頑固な上司や、意固地になる部下は『止まった振り子』やろ。

 狂ったコンパスでは、《どこにも進めなくなる》
 止まった振り子では、《時間が進まなくなる》

 【時の羅針盤】と【心の振り子】

 エントロピーが、〔入れ替わってる〕かもね。

《Surrender Yourself To Time》


 ではでは今回はこの辺で。
 エンディングは『I Don't Want To Miss A Thing - Aerosmith』🌏



*事例協力*
 現場コンサルタント X氏

*参考記事*
 ミスした部下の行動は「叱責」や「罰」で変わるのか〜「鬼滅の刃」鬼舞辻無惨のマネジメントの是非〜 曽和利光 株式会社人材研究所 代表取締役社長

*参考書籍*
 ・ヒトの壁 著:養老孟司  新潮新書
 ・宇宙はなぜ美しいのか 著:村山斉  幻冬舎新書
 ・時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙
           著:ブライアン・グリーン 訳:青木 薫  講談社

 ・ブラック企業殲滅論~『親と月夜はいつもよい』 助けてお母さん!~

 ・ホワイト企業創生論 〜陽気発する処、金石も亦透る〜


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