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見えない壁

【Missing-link】
 1. 生物の進化において化石生物の存在が予測されるのに発見されていない間隙。
 2. 分断された鉄道や道路のこと。

Richard Elliot - Who?


 格物は朱子の説に依らなくてはならないとは、だれしものいうところであるが、いったい、朱子の説を実際にやってみた者があるであろうか。わたしは実際にやってみたのだ。

『朱子学と陽明学』 島田虔次


い. 3つの『理』

 川の途中に木などが引っかかっていて、流れを堰き止めていることがあります。流れが遮られて水が流れていかないのです。これと同じようなことが人の”思考”においても起こります。

 3. 論理… 頭で考える… 理解
 2. 心理… 心で感じる… 納得
 1. 生理… 身体反応… 生死

 どれも生きていく上で欠かせないものです。
 論理を知ると物事を正しく捉えることができますし、心理は他人と共感するときに重要になります。生理は人の身体の機能を正常に保つために不可欠です。生まれてから 生理 → 心理 → 論理 の順でできるようになっていきます。論理が一番遅いので”高度”だと思いがちですが、それが可能なのはそれより前の生理と心理が基盤になってくれているからでもあるのです。

 p.「言ってることは解るけど納得できない」
 q.「言葉にできないけど心に響く」

 誰でもこのような経験をしたことはあるでしょう。言い換えるなら、

 p. 理解はできるけど、納得はできない(理解 - 可、納得 - 不可)
 q. 理解はできないけど、納得はできる(理解 - 不可、納得 - 可)

 この2つは真逆、まるで『鏡写し』のようになっていますね。
 人は複雑な生き物ですので、どちらかが引っかかると上手く自分の力が使えなくなってしまうのです。さらに、もし2つともOKだったとしても生理的に受けつけないことであれば上手くいかないでしょう。

 生理的に受けつけないとは、たとえば『アレルギー反応』がありますね。
 私は甲殻類アレルギーを持っていますから生エビが食べられません。手で触ると痒くなったり、食べると喉がチクチクしだすので身体が拒絶しているのでしょう。でも、論理的や心理的には”好きな食べ物”なんですよ。私の場合は火が通ると平気になるのでエビ天なんかは食べれますが、人によっては”死ぬ”ことがあるので生理反応を無視してはいけません。

 アレルギーは食品だけではなく”他のこと”にも当てはまります。
「生理的に受けつけない」
 この感覚を無視して無理やり耐えていると、健全な健康状態を保つことができなくなることがあるので、「嫌なものはイヤ!」と言うことも大事です。たとえ論理的にどれほど整合性が取れていても、身体が拒絶するのであれば構うことはないのです。生死に関わりますからね。

 論理、心理、生理の3つが揃わないとキレイに流れていかないのが、人の思考であり社会なのです。文句を言っても何も解決はしません。それよりも、その人が何を重要だと捉えているのかを見ることが大切です。


ろ. 二元論

 発達障害の特性によって考え方や捉え方が全然変わることや、常人の思考法とかいろいろ扱ってきたけど、一番最初は「デカルトが理系と文系を分けた」ってところからなんや。デカルトといえば『方法序説』があるけどその中に”準則”ってのがあって、要約すると、

 α. 速断と偏見を注意深く避けること
 β. 難問を可能な限り、解くのに必要なだけ分割すること
 γ. 自然には先後のないものにも順序を仮定すること
 δ. 全体像を俯瞰して見直すこと

 この4つがある。一番有名なのは”β”の「困難は分割せよ」ってやつや。
 今まで記事で書いてきたことは”γ”に相当するのかな〜、多分。『因果の逆転』って言ってきたものやな。人間は原因と結果を逆に捉えることがある。デカルトはそれを知ってたんやろな。やき、確定やなくて『仮定』って言うとるのや。自分が認識したものと他人が認識したものは全く違うことがある、”逆”になっとることがあるからな。

 デカルトは哲学者やから勉強ばっかしてたような印象を受けるかも知れんけど、全然そんなことはなくて、9年間かけて各地を回る『旅』をしてその後に方法序説を書いたみたいやで。ってことは、アカデミア(理論)だけやなくてリュケイオン(実践)もやっとるということやな。
 理系と文系に分けて”対立”しとるなら、両方とも方法序説を読んでみたらええんやないかね。

 デカルトによって2つに分かれた ということは、
 デカルトによって元に戻せる ということ。

 いうなれば『370年越しの後片付け』ですな。自分が分けたのを放ったらかしにしたままってのは、本来なら”しばきまわす”ところなんやけど、如何せんもうこの世にはおらんからな〜。まぁガリレオ裁判でガリレオを救った功績もあるし、ここは大目に見といたろうかね。

 デカルトもまさか、自分がやったことが300年以上後に異国の地でこんな影響を与えるとは思ってなかったやろな。だいたい、理系と文系に分けとるのは日本だけで、ヨーロッパではもうとっくに分けてないんやで。この辺がね〜、”日本人”って感じよね。真面目というか頑固というか一途というか… 。
 デカルトであれば理系の人でも文系の人でも言うこと聞きやすいやろ。どちらの人も認めるしかない偉人やしな。そしたらまた1つになる。ゲームでも、

「300年前に分かれた力が、今、1つに ー」

みたいなのがあるやん。そんな感じのやつや。それか、名探偵コナンみたいなのでもええで。当時、デカルトと対をなすのはパスカルやったけど、コナンの対は誰なんやろな… 服部かね… 灰原姐さんもおるな〜… 怪盗キッド… ん〜でもここは世代的にやっぱ”ルパン”に来てほしいよな〜。

ルパン三世 vs 名探偵コナン
      双対の準則(ロスト・コード)

 準則と書いてロスト・コードと読むとか、コナンってなんかそういうタイトル多いやろ。漢字表記で読みは英語ってやつやな。ルパンとコナンって『真逆』なんよな。

 p. コナン… 身体は子どもで、頭脳は大人
 q. ルパン… 身体は大人で、頭脳は子ども

 トポロジカル物質みたいになっとるよな、この二人。どっちかというとコナンは論理型のデカルトで、ルパンは直感型のパスカルやろな。また二人の映画が見たいけどどうなんやろね。やっぱ景気が回復せんと難しいかな〜。

 ちなみにリュケイオンのアリストテレスの師匠がアカデミアのプラトンやけど、プラトンの師匠はソクラテスで、ソクラテスは『職人(石工)』やで。

 解りやすいように”分離”したものがいつのまにか”分断”に変わって、相手の影響を受けないから『極端』になってもうたのや。二元論ってのは2つがつながってるから成り立つんやけど、分断して極端になったからそれぞれが一元論になってもうとる。二元論やなくて『二極論』なんや。

 それで、両方とも視野が極端に狭くなって殻にこもっとる感じやな。でも、誰も気づいてないかもしれんけどな。



【収斂】
 複数の物が互いに異なる性質・指標などを持っている状況から変更・移行を起こし、同質化・同等化・相似化(互いの性質等の差を無くす方向)が進むこと。

Euge Groove - Knock Knock! Who's There?


祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」


は. 万華鏡思考

 デカルトは9年かけて旅をしましたが、この期間は職人の修行期間とほぼ同じです。10年かかると言われますね。この間に”技術”だけを鍛えていると思っている人も多いやろうけど、鍛えとるのは技術だけやないで。技術の他に”他人と接することそのもの”が経験になって成長を促しとるのや。

 10年の間にいろんな人に出会うやろ。先輩や後輩はもちろん、お客さんもいろんな人がいます。お客さんとは『赤の他人』のことですね。もちろん、常連もいますがいつまでもいるとは限りません。引っ越しなどで店を去っていく人もいるでしょう。

 他人と接することにより新しい視点を知ることができ、閉じ込められた思考を解き放つことができるのや。それなのに極端になってもうた現代は、他人の視点を知ることをせんなって、殻にこもっているかのように感じますね。その結果、【見えない壁】ができて意思の疎通が困難になり、不必要な齟齬に溢れているのではないでしょうか。

 自分の分野の知識を縦に掘ることばっかやって、横につなげることをやっとらんのや。やき、他の分野とつながることができんなって、発想の転換もできんなってしもうたのや。発想の転換には、原因と結果を入れ替えたり、等価で結んだものを代入/変換したりすることが大事ですが、他とつながっていないのですからそれらができなくなったのですよ。

 結果、新しいものが産まれなくなったのです。

 「別の分野の内容同士がつながるわけがない」と思うかもしれんけど、この世には”同じものを別の名称で呼ぶ”ことがあるき、つなげられんわけやないのよね。

 文武両道 = 知行合一
 コントラバス = ウッドベース
抽象化 = 帰納
因果の逆転 = 対応関係

… みたいにね。横につなげていくとくるくる回る『万華鏡』のような効果が生まれます。あるいは単純に”車輪”でもいいですよ。このような考え方は哲学にも仏教にもあるので、日本人には馴染みやすいのではないでしょうか。

 万華鏡のような思考を得たいと思うなら、養老孟司さんの本がオススメやな。どの本も横に横にパスしていく感じになっとるき、読むだけで万華鏡思考の練習をしとることになるのや。養老さんの本とデカルトの方法序説は必読だと考えますね。単純に、こんなにおもしろい本があったんだな〜と感じます。

 ところで、アメリカのテック企業の勢いがなくなってきているようですが、今まで日本がダメージを食らったのは、バブル崩壊、リーマン・ショック、テック企業衰退の3つが挙げられます。何が共通するのかな〜と考えてみたんやけど、『無いものを有るとする』ことで起こってんのかなと思った。

 ずっと前に、バブル崩壊は売る土地が”無く”なったから起こった みたいな話を聞いたことがある。リーマン・ショックは、要は不良品を商品に混ぜて売ってたんやろ。正規の商品では”無い”ってことよね。んで、テック企業のメタ・バースは現実の世界には”無い”のです。

   バブル崩壊… 無いものを有るとする
 リーマン・ショック… 無いものを有るとする  
 テック企業衰退… 無いものを有るとする

 どれも『無いものを有るとする』ことで起こっていませんか。誰もが夢を見続けた結果、最後に崩壊したように見えますね。夢と現実との”ズレ”が大きくなっていき破綻を迎えたのでは… と考えます。
 平家物語では、平家の繁栄から滅亡までが描かれていて、栄えた期間はだいたい”20年”くらいです。バブル崩壊、リーマン・ショック、テック企業衰退もざっくりと”20年”ごとに起こっているように見えますね。

 万華鏡思考は他のものとの『共通点』を見つけることにも使えるのや。社会には同じ構造やったり同じ環境やったりするものがあるけど、そんな場所では”同じ問題”が起こるのや。構造や環境が同じであれば効果も同じなのですよ。

 組織には『チームプレー』が求められますが、チームプレーをしたことがない人はいわゆる”団子サッカー”をやってしまうことがあります。本来、会社や店舗では”組織サッカー”が求められるのに、小学生のやる団子サッカーになってしまうのは、チームプレーをしたことがないからやで。んで、チームプレーに必要不可欠なものが共通点であり、それを見つける『万華鏡思考』なんや。

 「サッカーじゃなくて野球だ」と考える人も多いと思う。サッカーより野球の方が”命令”に忠実な必要があるきそっちの方が組織には都合が良いと考えるでしょう。しかし、それは裏を返せば”命令がなければ動けない”ということです。つまり『指示待ち人間』になってしまうのです。そしてこれが”他人のせい”にする元凶でもあるのですよ。

 指示待ちの人は、常に自分の行動は他人が決めてるのであって、自分で動いてるわけやないと考えるやんか。やき、自分の行動の責任の主体は他人にあると考えるようになってしまうのや。結果、すべてを”他人のせい”にするようになっていくんやで。

 野球の体制は”命令”には好都合なんですが、翻って”責任”においては不都合になるのです。どんなことも表裏一体、メリットとデメリットがあるのでそれを見極めることが重要ですよ。

 さて、デカルトから始まった370年に及ぶ長い『旅』でしたが、そろそろ終わりにしてもええんやないかね。今までのことをデカルトに倣って本にまとめるのもええし。いつまでも自分が旅を続けとると、次に旅に出掛けたい奴らが出られんやろ。

 次の時代は次の人たちに任せて、

 家に帰りましょう。





*参考書籍*
 ・方法叙説 ルネ・デカルト/小泉義之 訳 講談社学術文庫
 ・朱子学と陽明学 島田虔次 岩波新書


私の意図は、各人がその理性をよく導くために従うべき方法をここで教えることではなく、どのようにして私が自分の理性を導こうと努めてきたかを見せることだけである。

『方法叙説』 ルネ・デカルト


先日、庭先でトンボが背中にとまりました。
もうすぐ、夏がきますね… 。

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