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(書評) 心を浄め、癒やす光---『光』
旧刊を中心におすすめの本を紹介しています。
旧刊でも、メジャーでなくても、素晴らしい本は沢山あるので、そういう本に触れて頂くきっかけになればと思います。
★ 「光」 日野啓三 (小学館 P+D Books)
この数年、日野啓三の小説ばかり読んでいる。
ずっと前に『天空のあるガレージ』『抱擁』等を熱心に読んでいた時期があったが、その後は別の作家に興味が移り、気がついたら25年位ご無沙汰
していた。
数年前、様々な作家の秀作エッセイを集めた「ベスト・エッセイ集」を読んでいたら、日野氏の『出会い、感謝、神の慈愛』というエッセイに出逢った。度重なる重病で何度も死に直面した氏の、自宅外泊中の思いを綴った
文章だ。
何かを悟ったような、透明で澄んだ、慈愛に満ちた内容が心に沁みた。
その時、氏は既に亡くなっていた。ずっと読まずにいたのを悔いて、
それから未読だった氏の晩年の短編集や長編を再び読み始めた。
どれも素晴らしかった。「小説を読む醍醐味」はこういうものだったんだ、と目から鱗が落ちる気がした。小説といっても色んな種類があり、私は娯楽性やインパクトを追求したエンタメ小説やミステリーも好きだし、いつもシリアスなものを読んでいるわけでは決してないけれど、日野氏の作品に再び出逢った時、こういう小説を読みたかったんだと気づいた。
生の根源を問いかけ、心の深みに触れる、それでいて暗くはない、宇宙的な広がりと透明感のある小説。
私はどちらかというと、氏の短編のほうが好きなのだけど、長編の中で一番好きなのが、この作品。月に行き、そこでの強烈な経験で健忘症になった元宇宙飛行士が、ホームレスの人達や中国人看護師らとの交流の中で、自分を取り戻し、人として再生していく物語だ。
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元宇宙飛行士の男は、月で過酷な経験をして健忘症になる。ある意味では有名人の彼を世間の目から守るため、上司は彼を東京郊外の神経科病院に入院させる。そこで男を担当するのが、堅実な性格の中国人看護師の女性。日本語は普通に話せるが、完全に日本に溶け込めていない疎外感を感じている。
男の個人情報は極秘のため、看護師は彼がどういう人間か知らない。謎の人物だが、他の患者とは違うものを感じている。ある日、男に外出許可が出て、中国人看護師が付き添って出かける。簡単な会話を通じて、孤独な境遇の二人は、何となく通じ合うものを感じる。
男は次第に記憶を取り戻し、病院から失踪する。北海道のロケット打ち上げ基地に行き、そこからまた行方不明になる。上司と中国人看護師は、広い東京の空の下、どこにいるかわからない男を捜し始める。
男は昔住んでいたあたりの認知症の老女の家に泊まりこみ、老女が急死すると安ホテルを泊まり歩くが、財布を取られて無一文になり、公園で寝泊まりするようになる。そこで知り合ったホームレスの老人に、ビルの地下の彼らのねぐらに連れて行かれる。宇宙飛行士というエリート中のエリートから、社会の底辺まで堕ちていく。
その後、ホームレスの老人と中国人看護師が偶然出逢ったことから、事態は意外な展開を…。
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男が記憶を取り戻す中で、月での過酷な経験とそれに伴う精神的なパニックが明らかになっていく所が、本書の最大の読みどころだ。男にとって宇宙は憧れの場所であると同時に、人間性が変わるほど恐ろしい所だった。神秘的でアメージングな場所。
月から帰ってきて抜け殻のようになり、ある意味では死んでいた男が、過去を持つホームレスの老人(とても良い味)と、タフでしなやかな精神を持つ中国人看護師との交流によって、人として蘇っていく。
ホームレス生活から立ち直り、上司と共に組織の重役に面会した時の男の言葉が印象的だ。
「十分休養したようだな。精神の、いや神経の病気の方は癒ったか」
咎めだてる口調ではなかった。
「そのようです」とだけ元宇宙飛行士は言葉少なく答えた。
(中略)
「ところできみは何を思い出せなかったんだね。そんなにコワイものがあったのか。宇宙人でもいたか」
「闇がありました」
元宇宙飛行士は静かにそう答えた。局長は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに声をあげて笑った。
「ハッハッ。それはいい。ここだっておれだって一寸先は闇だ」
「一寸後も闇です」
同じ口調で元宇宙飛行士は答えた。
局長の顔から余裕あり気な笑いが消えた。
「そして闇は光だったことを思い出しました (本書より)
この小説だけでなく、日野氏の晩年の小説には「光」を感じさせるものが
多い。無邪気に明るい光ではなく、生と死の深淵を何度も覗いた人にしか
分からないような…。不思議な透明感と清冽さと癒やしを感じさせる作品が多く、そういう所に惹かれる。
圧倒的な筆力で、氏はほぼ全ての主要な文学賞を総ナメにしている。
この『光』も読売文学賞受賞作品だ。
芥川賞、泉鏡花文学賞、芸術選奨文部大臣賞、谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞、野間文芸賞…
緻密でよく練られた文章。テーマは限りなく深いが、筆致はどこか乾いて軽やかだ。文章から滲み出る人間的な誠実さ…。読んでいると、文学を読む醍醐味とは、こういうものだったんだと思う。ワンアンドオンリーの孤高の作家だったなあと。私は、残された作品を大事に読み続ける。
『光』は、男と看護師の未来に続く再生の光を感じさせて終わる。
彼が長い間、空に出かける時もあるだろう。だがどこにいようと、この河がわたしのなかを流れ続ける限り、彼のいる空とつながっているのだ。空の彼方は昼でも真暗なのだ、と彼は言うけれど。(中略)
河下の方がどうなっているのか、彼女は知らない。何を運んでいるのかもわからない。だがこうして人間は永遠のなかを横切っていくのだと思った。舟は静かに河下に消えてゆく。広過ぎる河と大き過ぎる空。ひとりだけよりふたりの方がいい。
あのひとの名を思いきり呼ぼう、この溢れる光の中で。 (本書より)
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この小学館P+Dシリーズは、現在入手困難な、後世に残したい名作を紙と
デジタルで出しています。紙のほうはペーパーバックの簡素な作りですが、軽量で印刷も読みやすい。色んな作家の作品が出ているのでチェックしてみて下さい。
●『聖岩』は、とても好きな短編集。これには収録されていませんが、『七千万年の夜警』『牧師館』等の短編もとても好きです。
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↓子供向けに書いたものではないですよ。
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