2020年度年金運用GPIF最高運用益と、ゼロリスク信仰という病
素人による、的外れなGPIF批判
2020年の初頭に始まったコロナ禍は、私たちの普段の生活への影響もさることながら、経済や各種行政へも大きな影響を及ぼした。特に経済への影響は大きく、日経平均は一時16,800円まで落ち込み、一部ではリーマンショックやバブル崩壊の再来だ、という悲観的な論評が市井に大きく広がった。
私たちの年金を積立管理運用を行う独立行政法人GPIFは、2019年度の運用結果を-8.3兆円とした。2019年度は12月までの運用こそ比較的順調だったものの、コロナ禍が襲った1-3月期に17.7兆円の運用損が発生。四半期で-17.7兆円という額は、過去最悪の損失である。
これを受けてマスコミ各社は「過去最悪の損失額」というキーワードを用いて報道。もちろん一部新聞社は嬉々としてそれを反権力、政権批判へと利用。投資音痴の共産党もそれに嬉々として賛同。市井はそれを受けて「私たちの年金が!」「GPIFは私たちの年金でマネーゲームしてる!」「投資は危ない!そんなものに私の年金を使うな!」「年金破綻の危機!」「GPIFは無能!」と、いつもの短絡的な批判が巻き起こった。
筆者は数年ほど前より、長期投資家として細々と積立資産運用を行っているが、この手の批判がある度に「ああ、またか」と冷めた目でみている。そして長期投資家にとっては、この手のGPIF批判は反面教師と言ってもよく、こういった批判の声に沿ったことはやってはいけない…と肝に銘じるのである。実際筆者も2020年度のコロナ禍では、多少なりとも運用で含み損を被ることはあったが、多くの長期投資家と同じく「むしろポートフォリオの株価比率を少しあげて積立買付を続けよう」と、淡々と対応するに留まっている。
そして、コロナ禍が尚も続く2021年。2020年度のGPIF運用実績が公開された。2020年度の実績は+37.7兆円、運用益にして+25.15%である。これは2001年度以降、過去最高の運用実績である。そしてそもそも、2001年度からの累積で見ると、損益は常にプラスなのである。
投資知らずな私たち
まずそもそも投資における重要な要素として、含み益と含み損というのがある。例えば100円の株を買ったとして、それが翌日120円になったとする。利益は何円か?と言われると20円と答えたくなるが、実際は「0円」が正解である。というのも、たとえ株価が上がったとしても、それはあくまでも株という資産の評価額に過ぎず、現金化しないかぎりは利益が確定したわけではないのである。この場合、今時点で現金化すれば20円の利益がある…という意味で「20円の含み益」というのが正解である。
これは逆を言うと損を被った時も同じであり、100円で買った株が翌日80円になったとしても、20円の損失というわけではなく、現金化しない限りその損失を被ることはない。あくまでも「20円の含み損」ということである。
そして2019年のGPIF損益における-17.7兆円という数値だが、これは無論含み損のことを言っている。つまり損失が確定したわけではないのである。
「そんなこといってもマイナスじゃないか!!」
「俺たちの年金の評価額が減っているのは事実じゃないか!!」
「ごちゃごちゃうるせえ!!ようは損してるだろ!!」
という声も聞こえてきそうだが、無論このまま含み損が膨らみ続けると現金化時に莫大な損失を被ることになる。故に今のうちに現金化しておき損失を最小限にとどめる、いわゆる「損切り」を行うことも一つの手段だが、それはあくまでも経済が減退を続けた場合の話である。
大半の長期投資家は「確かにコロナ禍の影響は計り知れない。でも各国でワクチンの開発が行われて始めており、防疫のアクションも行われている。このまま経済が回復することなく減退し続け、資本主義経済が終了するほどの打撃ではない可能性が高い。むしろ来年くらいから回復するだろう」「とはいいつつも、未来のことはわからない。でも今損切するのは拙速かな」程度の読みは行っていただろう。
そして実際2020年は前半こそ株価の下落が続いたものの、後半は回復基調を見せ大きく躍進。GPIFも過去最高の運用益、つまり含み益を出している。
「単に読みが当たっただけだろう」と捨て台詞を吐く人もいるだろう。確かに未来はわからないし、各国政府が何も行わずパンデミックが深刻化し、経済が崩壊し資本主義が終了、北斗の拳のような紙幣が尻紙にもならない時代が来ていた…のかもしれない。
しかし投資の世界に限らず、未来が確実にわかる人は存在しない。あくまでその時点でわかる情報をもとに可能性で予測を立てるのが普通である。まさか北米に見られるブレッパーたちのように、未来に起こりえる世界崩壊という最悪のシナリオにすべてのリソースを注ぎ万全に備えるべき…というほど極端に振り切るわけにもいかないだろう。
現実を見てみると、確かにコロナ禍は計り知れない悪影響を及ぼしているが、それが恒久的で未来永劫解決できない問題か?と問われると、そう思う人は多くないだろう。今すぐ対処はできなくとも、市場や経済はコロナ過での活動にある程度は対応できるのほど順応性を持っており、悪影響こそ大きいが致命傷に至る可能性は低い…と冷静に分析できるはずである。
「最悪を想定すべき」という後出しジャンケン
「可能性は低くとも、1%でもあるなら起こりえるだろう」という人もおそらくはいるだろう。ただ、普段道を歩いていて事故に起こる確率が0ではないから、外出はしない…という人がそう多くはないように、私たちは常にリスクの中で生活している。ゼロリスクはあくまでも理想論であり、現実としてはありえない…というのは、おそらく多くの人が当たり前として捉えているはずのものだろう。
これは無論資産運用や投資に関しても同じで、年金の一部もその運用が大きく関わっている。もっと言ってしまうと、安全と言われる銀行預金も銀行そのものが破綻すると、最悪のケースよっては資産の一部がなくなってしまうこともある。そもそも資産を円で持つこと自体、日本に対して間接的に投資を行っている。「日本はもうだめだ」とネットで面白おかしく騒ぎ立て悲観する私達も、結局日本という国に寄りかかり投資しているという事実は変わらないのである。
よく「最悪のケースを想定するべき」といった批判の声が様々な事柄に向け、投げかけられるのを見る。事故が起きた時「そんな事故が起こることを想定していなかったのが悪い」など、よく言われることだ。「最悪のケースを想定して動いていれば、最悪のケースに至らなくても損をすることはない」という考えである。
無論最悪のケースを想定すること自体は悪いことではないのだが、最悪のケースが必ず起こること前提で何事も決定すべき…というのは少し筋違いだろう。この考えでいうならば、そもそも円の価値がなくなってしまう可能性がゼロではないのだから、資産のすべてを普遍的で未来永劫価値が変わらないもので持つべき…ということになる。が、おそらくそれを実際に行動に移している人は、そう多くはないだろう。それでは生活が成り立たないからである。
もっと言ってしまうと、そもそも最悪のケースを前提に生きるとなってしまうと、外出もせず人とも会わず何も食べず飲まず…とおおよそ生命としての活動自体ができなくなってしまうだろう。それが非現実的というのは、言われるまでもないことだ。
しかし何故か私たちは、他人のしくじりに対しては「なぜ最悪を想定しなかった」「リスクがあるのになぜやった」と嬉々として非難しがちである。結果論でだけで語るならそれも正しいのだが、それに至る経緯や判断材料、その判断を行った時点で知り得た情報については一切考慮をしていないのは少し浅慮だろう。後から知り得た情報をもってしてその判断を批判するのは、言うならば後出しジャンケンである。
GPIFへの後出しジャンケンは昔から
こういった後出しジャンケンは、昔からGPIFへとよく向けられていた。今を去ること2016年7月。2015年度GPIF運用損益が-5兆円超という結果を受け、当時野党だった民進党(現在の国民民主党、立憲民主党)は、「年金運用『5兆円』損失追求チーム」なるものを立ち上げ、この”損失”の責任追及を行うと鼻息荒く国民に宣言した。メディアも嬉々として一方的好意的にこれを取り上げ、特に投資や経済に疎い市井には「GPIFは無能だ!私たちの年金を投資というギャンブルに使ってる!」と勘違いした人も多く居ただろう。
筆者を含む多くの長期投資家は、「単なるパフォーマンス」「与党政権が国民の年金を”損失で溶かした”ということにして批判材料にしたいのだろう」と冷めた目で見ていたことだろう。実際「年金運用『5兆円』損失追求チーム」なるチームは、大した成果も具体的な対案もせず、素人投資家にありがちな短期目線のみでの損失追及ばかりに終始。投資家たちからは失笑を買っていた。
そして、翌2016年度は7.9兆円、2017年度は10.1兆円の運用益を計上すると、今度はメディアも野党もだんまりを決め込み、自分たちが焚きつけた”損失”以上の運用益を出しても、それを肯定的に取り上げることも称賛することもなかった。年金のことなどどうでもよく、つまりのところ批判だけしたい、存在感を出したいのだろう…と有識者の目には強く映った。こんな短期的な視点で小突き回す人たちに、とても政権なんて任せられないと思った人も少なくないだろう。
一方のGPIFは長期運用とは何たるものか分かっており「一時点のものであり、長期運用の観点ではよくあること」と極めて冷静だった。すでに後出しジャンケンと筋違いの批判には慣れっこという感じだろう。運用と聞くと、我々はすぐデイトレードのような短期間の激しくリスクの高い投資を想像しがちだが、運用というのは本来目先の動きに右往左往せず、じっくりと腰を落ち着けて粛々とリバランスを行い、目標とする指標に則って買付を行うも地味なものなのである。
ゼロリスクという信仰
メディアや野党が安易に行うGPIF批判に乗っかってしまうのも、国民そのものが投資や運用といったリテラシーに疎く、そもそもお金というのはゼロリスクで増やすのが当たり前、という呑気な認識が根底にある。
日本人は非常に預金が大好きで、資産の大半を銀行預金が占めている。いわゆる貯金と呼ばれるもので、お金というのは貯めて使うもの、という認識が広く普及している。
というのも、日本がある意味一番輝いていた1980年代末期から1990年代初頭。当時の定期預金(1年)の金利は平均6%に水位していた。これは定期預金にお金を預けておけば、何もせず12年放置するだけで倍になるという、預金という超低リスク金融資産で考えると異常に高い数値である。
もちろん当時はインフレ傾向が強く、各種貸付金利も非常に高いので良いことばかりではないのだが、資産形成という点だけで見ると、ほぼゼロリスクでお金を大きく増やすことは誰にでも可能だったのである。加えて預金保護の金額は1986年に1000万円まで引き上げられ、投資リテラシーの低い中間層と低所得層にゼロリスクで豊かになれるという、根強い神話を浸透させることになる。特に知識がなくとも、愚直に汗水垂らして働き貯金しておけば、日々の収入に加えて勝手に預金が増えていく…そんな幸せな時代があったのである。
しかし1990年代に入り、総量規制が行われたことでバブルが崩壊。長引く景気低迷に加えてのデフレ経済、そして円という通貨の需要が国際的に高くなったことで金利は下がり続け、2021年現在では0.003~0.002%に水位している。あの幸せの時代からどれだけ下がったかは、わざわざ説明するまでもないだろう。
この時点でバブルの頃と同じように働いて単に貯金しても、同じような資産を築けないのは陽の目を見るよりも明らかだろう。これまで預金に預けているだけで大きく増えていたものが、スズメの涙ほどしか増えなくなったのだから当然である。しかしあの幸せの時代を忘れられないのか、未だ額に汗して必死に働き貯金すれば「あの頃のような豊かな生活が出来るはず…そうじゃないとおかしい」と愚直な考えをもつ人は多い。ゼロリスクで豊かになれる神話は崩れても、その信仰が忘れられないのである。
そしてその信仰からすると、投資というリスクを取り資産を築くというのは”異端"であり、責められるべきギャンブルなのだとマスコミと野党は煽る。
無論リスクを度外視した運用というのは論外だが、短期で高いリターンが必要なら相応のリスクを背負うことになるのは致し方ない点も出てくる。リスクを背負いたくないならばリターンを諦めるしかないのだが、その諦めるが許されない時も残念ながら少なくない。ましてや、それが年金ともなれば尚更だろう。世の大多数は、私を含め年金が沢山欲しいのだ。
共感による情緒よりも、建設的な批判を
とはいえ、GPIFを批判するなという擁護もまた短慮に思う。現状実直な実績を出しているとはいえ、そのポートフォリオに非効率な部分があるなら妥当性を問いかける事はとても重要だ。ましてや投資先が実績と信頼ではなく癒着から決まっていないか厳しくチェックし問いかける事は、資産を預けている私達の当然の権利である。
ゼロリスクで資産を増やすことが出来た過去を妬み、将来の不安からくる鬱憤でただ批判するよりも、ずっとその方が建設的かつ利があるのではなかろうか。
リスクを取れ、低リスクは駄目だ…と極端に振り切る事には賛同できないが、私達は今一度いかにゼロリスクという信仰に眼が曇らされていないか、振り返る必要があるのかもしれない。