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主語によるコラテラルダメージ。SNSのいち所感

※本稿では、SNSを眺めていて思うことの一所感を書きます。
 個人的主観によるもので、信憑性はありません。
 事実と異なる点、間違い等あれば随時加筆修正予定です。

燃えたタイツと、いつもの紛糾

  2020年11月初旬。ストッキング、タイツ、インナーウェアの老舗「ATSUGI」が炎上した。扇情的な「萌えイラスト」を用いてTwitterで大規模な広報活動を行ったところ、そのイラストに不快感と嫌悪を覚えた人が激怒し炎上。女性内でも賛否があり、またこれまで「萌えイラスト」については多くの紛糾が巻き起こってきたこともあり、男女入り乱れ激しい言葉を用いての賛否と罵倒が飛び交う事態となった。最終的に「ATSUGI」が公式に謝罪し、広報活動は中止したものの、激論と罵声合戦は、本稿を執筆している今現在も尚続いている。

 本稿では、この騒動における各方面の良い悪いについては議論しない。注目したいのは、この騒動でにおけるツイート達に据えられた「主語」の存在である。

「これだから男は。本当キモイ。」

「フェミはまた気に入らないものは燃やすのかw」

「オタクはTPOをわきまえないよね…日常生活であのイラストはない」

「女はあのイラストうけつけないよ普通。」

「女だけど普通だと思う。オバサンがキレてるだけw」

 実際のツイートはもっと過激な言葉を使っているが、用いられている主語に着目すると、その種類は比較的限られている。列挙すると「男」「女」「オタク」「おばさん」「フェミ」…等である。大半のツイートがこれらを主語に過激な単語を添え、他者にぶつけられているのである。

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当たり判定から考える主語の威力

  わざわざ言うまでもなく、これらの主語は非常に対象が広い。昨今では「主語がでかい」とも言われるが、まさしくその通りで、これらを主語に据えるだけで、対象は発言者の認知を大きく超えた存在にまで増大する。

 本騒動では、扇情的な「萌えイラスト」による広報に嫌悪と不快感を覚える女性が多く存在した一方、好意的に見る女性の声も決して少なくはなかった。どちらが世の中の「常識」で「正しい」かについてはここでは議論しないが、少なくとも女性のすべてがこの表象に対して嫌悪していた訳でもなく、また女性のすべてがこの表象を好意的に見ていた訳でもないのである。

 しかしそのどちらもが、主語を「女性」に据えてツイートしている場面が多く散見された。無論「そりゃ私は女なんだから、主語が女性で正しいだろう」と言われるとその通りである。だが「女性」という主語は、そのツイートを行う当人は勿論、賛否両方関係なく、この地球上すべてに存在する全ての女性が対象となる。これらは無論、主語を「男性」「オタク」「オバサン」「フェミ」等に据えた場合のツイートでも同様である。

  扇情的なイラストによる広報をイレギュラーと思う男性も多く存在するし、逆も然りである。オバサンであっても萌エロな作風を好む人は存在し、嫌悪を抱く若年層の女性もいる。ましてや嫌悪を抱く人すべてがフェミニストという訳ではなく、特にフェミニズムに傾倒していない女性でも、所感は多種多様なのである。またフェミニストにもあの広報を好意的に見る人が少なからず存在していた。そもそも興味がない、どうでもいいという人も多く存在するだろう。

 それらを踏まえ、「オタクってあれが普通と思ってるのが怖い…キモイ」「オバサンはエロが大嫌いだからなw」といったツイートが持つ威力を見ると、その対象の広さと括りの雑さが見えてくる。極めて広大な範囲に向けての発言になっているのだ。

 おそらくツイートしている当人の内心では、「オタク」「オバサン」という言葉を使って、世の中に存在する全てのアニメ漫画ファンや中年女性を批判しようとしている訳ではないだろう。あくまでも過激な提言を繰り返す一部存在を対象としての「オタク」「オバサン」なのだろうと思う(勿論そうとは限らないが…)。しかし、据えられた主語は限られたその存在だけを指してはおらず、言葉通りの存在が対象となるのである。

 Twitterは発言の文字が限られており、発言者の前後ツイートも無視される傾向にある。主語を大きく据えつつ、少ない文の文脈を用いて対象を狭めていくのは、並々ならぬ語彙力と文章力が必要となる。そしてその語彙力と文章力を持ち合わせている人は、残念ながらそう多くはない。多くは感情の赴くままに主語を定め、その言葉を見知らぬ誰かに向けて投げつけているのである。あるいは、対象など最初からおらず「独り言」として無差別に世界に向けて投げている…というケースもあるだろう。

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報復の連鎖と憎悪の拡散

 この騒動について、とある方と意見交換をした。「気に入らない存在を、フェミとかオバサンとか言ってればいいっていう感じが腹立つ」と個人的にも頷ける所感を抱いていたが、悲しいかな、その当人もまた「オタク」「男性」「男」といった主語を用いて批判発言を行っていた。加えて同じような主語を用いての罵倒ツイートも数多くリツイートしており、「腹立つ」行為を自身でも無意識に行っていたのだ。

 無論、意見交換をしていたその人が悪いわけではない。筆者自身も同じような事をしており、またこの騒動について物申していた多くの人が、同じような行為を繰り返していた。皆が皆で、連鎖的に巨大な主語を用いた発言を繰り返し、そして他者の同じような言葉を何度も何度も再拡散していた…としたら、それはとても恐ろしいことなのだと思う。

 これら巨大な主語を持った発言は、インターネットを通し、世界中に放たれる。そしてその言葉を見知らぬ誰かがタイムラインに受け取り、主語を索引に認識し、読んだ時点で「着弾」が確定する。

 主語が着弾した受け手に該当したとしても、何も感じる事なく、数秒で忘れ去られることもあるだろう。しかしその言葉が扇動的で情緒に作用すると「いや違う」「私はそうじゃない」と抑えがたい発言欲求を覚え、気づいたらツイートボタンを押していた…という人も少なくはない。そしてまた新たな大きな主語が据えられ、見知らぬ誰かに向け放たれていくのである。

 しかもTwitterの場合は、リツイートによるタイムラインへの再掲載と、フォロワーのお気に入りツイートを無作為に表示するという機能が備わってある。つまり、一度放たれた発言は、見知らぬ誰かの手によって、何度も何度も据えた主語に向けて放たれ続けるのである。

 それらはさながら、無差別な「敵」へ向けて放たれるミサイルのようにも見える。そして、本来のターゲットよりも遥かに広い範囲を目標に据えたミサイルは、そのコラテラルダメージを増やしながら報復で打ち返され、楽しい応酬が続いていくのである。

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ミサイルへの銀の弾丸はない

 昨今「分断」という言葉が流行っている。異なる価値観同士が互いを尊重できず憎み合う状況を指して使われるのだが、まさしくこういった事象を指しているのかもしれない。そして「分断」とは、権力者や国家が煽るのではなく、前述の通り自由な発言機会を持った善良ないち個人による、無自覚な言葉が煽っているようにも見える。

 しかし、こういった分断が由々しき事態なのかはわからない。日本であれば現実世界での殴り合いになるケースは少ないし、仮にミサイルを撃った当人と着弾した当人が、次の日に吉野家で隣り合っていたとしても、おそらく気づく事もないだろう。

 そもそも、この分断を乗り越えるにしても、できる事は限られている。

 一言で用いる事が出来る主語というのは種類が少ない。適切に厳密な主語を用いようとすると、どうしても長ったらしい冗長な文章になりがちで、文字数の限られたSNSではそれは難しい。どういった人に着弾するかの想像にも限界はあり、仮に適切な主語を用いたつもりでも、実は巨大な主語になっていたと言うことは往々にしてある。

 安易に考えがちな「規制すればよい」で対処するにしても、土台無理な話である。自由な言論を侵害してしまうし、他人の主語を逐一監視する社会というのも、ディストピア感がある。適切で良い塩梅の規制運用が出来るほど優れたバランス感覚を持つ人は稀であるし、まさか「私が不快に思ったらクロ」とする訳にもいないだろう。

 シロクロつけ、どちらかを世の中の「常識」「普通」と昇華し、どちらかを「非常識」の名のもとに社会の隅に追いやりたくなる気持ちも大いに理解できる。しかしシロクロつけた価値観も時間とともに変容するし、常識に昇華される側の安堵の引き換えに、追いやられる側の憎悪は募る。

 納得しての棲み分けというのは、押し付けではなく相互の理解と尊重によって成り立つのだが…それが出来るほどの度量を持ち合わせた人もまた多くはない。故にこうやって巨大な主語によるミサイルの撃ち合いになっている側面もある。どちらか一方を屈服させ、従わせるのも一つの手段だが、その時点でもはや「異なる価値観の尊重」「多様性の尊重」ではなくなり、形を変えた全体主義と父権主義の礼賛にも見える。

 結局のところ、個々が主語を適切に用いた発言を心掛ける事しか出来ないのだと思う。

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「言葉の力」と向き合う

 多くの人は、何らかの機会に「言葉は簡単に人を傷つける」と教えられたかと思う。言葉通りの内容で、概ねそれは事実であり、否定する人もそこまで多くはないだろう。

 世界中の人に、国も距離も社会的地位も年齢も関係なく、平等に発言できる場を与えるとどうなるか。その答えの一つが、今のSNSなのかもしれない。

 「言葉は簡単に人を傷つける」という事例は山のように生まれ、それを行っている自覚のある人は少ない。他者の言葉は極めて過敏に受け止めるのに対し、自身の放つ言葉には愚鈍で無頓着。巨大な主語によるミサイルの撃ち合いを楽しみ、敵愾と分断を煽る善良な人々の姿がそこにある。そしてそれを止めようと義憤に燃える人たちもまた、同じようなことを繰り返している。

 勿論、誰も傷つけない言葉や表現というのは難しく、そういったものに世の中を統一すべきというのは賛同できない。どんな望ましくない話や発言であっても、その発言の機会を奪ってしまうことには反対だ。

 言葉の力について、その危険性と用い方を訴える言葉や金言は多い。ただ筆者自身も、その悉くに教科書通りという退屈さを感じており、特に意識もせずSNSを利用していた節がある。本稿を執筆するに至ったのは、恥ずかしながらそれに気づかされた自身への戒めでもある。

 今一度「言葉の持つ力」と向き合い、自身の襟を正していきたい。今回の騒動で強く思ったことは、その一点に尽きる。

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