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なぜ僕は旅先に読めるはずのない量の本を持っていってしまうのか?/「運読」の本質を考える

旅先や出張先はもちろんのこと、どこかへ外出する際には必ず本を持って行くことにしている。
例えば、これは先日香港2泊の旅に行った際に同伴した本ズだ。

全て未読の状態

香港を思い浮かべながら、2500冊の蔵書と向き合い、これらの本ズが選ばれた。

しかし、誰しもが思うだろう。たかだか2泊の旅で、これらの本が全て読めるのか、と。

答えはもちろんNOだ。
当たり前だ。
読むどころか手に取ることすらままならない。
旅や出張は忙しいのだ。
見慣れぬ地でいろいろな場所を巡り、その土地ならではの料理を食べ、友達と語り合う。
そこに、自宅で1人でもできる読書が入り込む余地などない。
強いて言えば目的地までの移動時間があるが、移動時間は本を読んでいたつもりが知らぬ間に眠りに落ちているなんてことも珍しくない。

先日も、十勝への出張の際に機内に3冊持ち込んだが、爆睡して1ページも読まなかったばかりではなく、3冊とも機内の物置ポケットに置き忘れるという失態を犯したばかりだ。(幸いなことに、本ズは帰りの空港で確保することができたけど)

こちらが哀れな本ズ

賢い皆さんは、お前は何のために本を運んでいるのだ、とツッコミたくなるだろう。
旅先で本などほとんど読む時間がないことなどわかりきっているじゃないかと。なのに、なんでただでさえ重たい荷物をさらに重くしてまで本を持って行くのかと。お前は筋トレがしたいのか、と。

僕もそう思う。なぜそんな意味のない行為を繰り返してしまうのだろうか。

そんな時に、ネットで発見したある言葉を思い出す。
それは「運読(うんどく)」という言葉だ。
「積読」という言葉は、どうせ読めないのにまた本を積んでしまった…という後悔の念で生まれた言葉だ。
そして、「運読」という言葉も、どうせ読めないのにこれだけの本を運んでしまった…という反省から生まれた言葉なのだ。知らんけど。

では運読の本質とは何なのか?
僕は「積読」というネガティブな概念に対して、「本は積むことに意義がある」というポジティブな意味を付与しているのは先日のnoteで書いたばかりだ。

もしそうだとするならば、「運読」という概念も、「本は運ぶことに意義がある」と積極的に言えるのではないだろうかと考えてみた。

例えば、運んだ本の重さが旅の思い出と絶妙に混じり合い、旅を知的なものに変換させてくれることにある…とか。
ページをめくらないまま帰ってくる本たちは、私の旅を無意識のうちに彩ってくれる…とか?
旅行にカメラを持ち歩くのは思い出を残すためだが、本を持ち歩くのは未読の物語という可能性を残す…とか??
さらに、旅先で読めなかった本を再び開く時、まるであの旅を再訪するような気持ちになるのだ…とか???

頑張って運読の効果をアクロバティックに語ろうとしたが、さすがに無理だ。旅先の旅館に本を積んでも、長い時間を過ごす家とは違う。運んでもその本の存在すら忘れてしまうレベルだから、その効果は限定的だ。読まない本を旅先に運ぶだけの効果は、せいぜい筋トレくらいのものだ。

しかし、僕はなぜ性懲りもなく、どうせ読まない本の運搬往復という行為を毎回やってしまうのだろうか?

その自問でふと気がつくことがあった。
実は運読の本質は、旅先に本を運ぶことにあるのではない。そうではなく、旅先のことを考えながら、本棚を見つめて対話しながら選書することにあるのだ。

僕は出張前や長距離の移動前には、行き先の風景などを思い浮かべながら、本棚と対話をする。
旅先の地名や出張目的などを念頭にしながら本棚を見つめると、今まで必然的な機会がなくて目に止まることがなかった本たちが、ここぞとばかりに声を上げる。
「おい、今回こそ俺の出番だろう!今俺を読まなくて、いつ読むのか!」という罵声。もしくは、「お客さん、あたし、その目的にはちょうどいい感じですよ」というような客引きのような声。そんな本ズからの叫びが聞こえてくる。
そして、そうした声たちと「わかった、また今度な」などと言いながら、慎重に持参する本を決めていくのだ。
(ドン引きされるかもしれないが、僕は本当にブツブツ声を出しながら本棚と対話をしている。その姿は我ながら異様だと思う)

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