積読は罪ではない。恐れずどんどん積んでいこう
よく「荒木さんはあれだけの本をよく読まれますよね」と言われることがある。
Voicyで毎週一回、「今週仕入れた本ズ」というコーナーで、仕入れた本を紹介しているから、そういう印象がついたのだと思う。
毎週仕入れる本は、平均すると週に10冊くらいだと思う。
1年に換算すると、500冊超を仕入れている。
しかし、勘違いしてはいけない。
これだけの本を僕はなぜ買っているのか?
それは読むためではない。
積むために買っているのだ。
僕は速読術なんて芸当はできない。
1冊を読む時間は、多分人とそんなに変わらない。
読了までに平気で1ヶ月かかる本もザラにある。
だから、僕の書棚にある9割以上の本は、おそらくそのまま積まれて未読のまま終わることになる。
すでに僕の書棚にある本をちゃんと読もうと思ったら、僕の人生はあと3周は必要になるだろう。(いや、2周目、3周目の人生も、それ以上の本を買い続けるだろうから、多分永遠に終わらない)
つまり、絶対に読まないということが分かりながらも、買っているのだ。
では「積むため」とはどういうことだろうか?
本を積むということは、この背表紙からのメッセージに囲まれるということだ。
僕はこの部屋で多くの時間を過ごしているが、この積読本からの無言のメッセージを常に目にしながら生活している。
PCに向かいながら考えている時には目の端に背表紙が映っているし、思い悩んで上を見上げる時にも、その視界には背表紙がある。
そして、この背表紙はおそらく日常的に僕の無意識に入り込んで、何かを訴えてきているはずだ。
少なくとも、これだけの知に囲まれていると、自ずと謙虚にならざるを得ない。
目の端に映るマルクス・ガブリエルは「なぜ世界は存在しないのか」という深遠な問いを投げかけてくるし、エリック・カンデルは「なぜ脳はアートがわかるのか」という興味深い質問を提示する。ティム・インゴルドからは「応答、しつづけよ。」という謎の圧を受け取り、カルロ・ロヴェッリからは「時間は存在しない」という混沌としたメッセージを受け取り続けている。
何かわかったような口を聞こうものなら、これら先達たちから軽蔑の眼差しで見られること必至だ。
つまり、本は視野に入るところに積みさえすれば、意味があるのだ。
普段何気なく見えている視界の効果を侮ってはいけない。
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