菜食主義という生き方(ペスコベジタリアン日記)
※おまけが有料※
さて、私はペスコベジタリアンである。ペスコベジタリアンとは、野菜と魚を食べる主義の人を指す言葉である。数ある菜食主義の一種という位置付けであると認識している。
私がそんな食生活を送るに至った経緯を、簡単に書きたいと思う。これは自己分析であり、エッセイだ。
前提として:私の体質
そもそも私は幼少の頃からアトピー性皮膚炎を患っており、卵アレルギーも持っていた。
有難い事に家族の丁寧な食事療法の甲斐もあって、全身にあった炎症反応は、思春期の頃には関節部分と手の周りのみと大分範囲が小さくなった。一番湿疹の目立って居た顔面が落ち着くだけでも、気分が全然違ってきていたのを鮮明に覚えている。どうしても毎日目にするものだし、何よりも「自分」の象徴だから余計にね。
しかし肌に出るタイプのアレルギーは、「長期的に見て、あまり人体が摂取しない方がよい物」を即座に理解する良い目安になると考えて、有り難く活用させて貰っている。アレルゲン以外にも、防腐剤や人工甘味料、増粘剤に私の身体は反応する。健康に長生きする為に、小まめに生活のフィードバックが出来るという認識だ。
日々「摂り過ぎない食事」を意識し調整していれば、アレルゲンのある程度の含有は許容できるとして、自分のアレルギー体質と上手に付き合いながらも時々ジャンクなものを食べたりもしていたのだが、二十歳の時に大きな転換期が訪れた。
第一転換期:肉への物理的拒否
四つ脚の動物(豚、牛、羊)を食べると、アレルギー反応が出るようになった。血液検査の結果もそれを保証していた。
該当食物を摂取した際の具体的な症状としては、
①内臓が腫れる感覚がする…気管支が腫れて喘息になる
②炎症部分の掻痒感と滲出液の量が尋常じゃなくなる
の二つだった。
乳製品も同時期に無理になり(乳と言うのは考えてみれば、血液から作られている体液なのだから当然ですな)、タンパク源として大豆製品に注目した生活を始めるようになった。大豆すごい、食品の幅が本当に広い。そして美味。最高だ。
第二転換期:肉への精神的拒否
そしてその第一転換期から三年後、新たな転換期が私に訪れた。
「鳥肉を食べようと意識すると、鳥の死体を目にする」出来事が十日連続で発生したのだ。
それぞれ違う場所・大きさ・死因で、一日一羽の間隔で。一番初めにその事象を認識したのは、新卒一年目の初ボーナス、研修期間中だった為に金一封であったそれを貰った日だった。
少し贅沢にターミナル駅直結の大型商業施設の高層階にある和食料理店で、優雅な鶏肉料理の定食を食べようとウキウキしながら帰宅していた日。風がとても強かったあの日。私は夕陽が差していた6月の道端に、どこかの軒先から飛ばされてきただろう灰色がかったボロ布に目を止めた。
三つの瞬きをする間に、そのボロ布が車に轢かれた鳩の結末だった事を理解した。無機質な白さに感じたのは、生命活動を終えて長時間日光に晒されたが故の、乾燥による体液の蒸発が発生した後の、骨と羽の色味の喪失によるものであったのだと思う。
鳥の死体達を目にするようになってから丁度十日後、自然と目前の鶏肉料理と鳥の死体を結びつけるようになった頃。「もう食べられないなぁ」という考えが湧いてしまってからは、肉食断ちをする生活をしている。
厳密さについて
私は、例えば調味料の段階でアレルゲンが入っていたりする際、免疫力が許す状況であれば見なかった事にしている。即ち、主役としてその料理に君臨していなければ、見逃して摂取をすることも可能だとしているのだ。つまりは適当である。
また現在、ペスコベジタリアン自体が、主張の根幹を説明する難しさ故に、少し浮いている存在となっているようだ。肉を摂らず魚を摂るということは、健康的な生活を意識して節制する人にとっては理由づけに乏しく、倫理的な生命の保護を訴える人にとっては境界線が曖昧である為だと推測している。
私は体質の為選ばざるを得なかったが、未熟ながらもどうしてこの菜食主義の一種が発生したのかを考えてみた。あくまで個人的な感想の延長の為、おまけとして書かせてもらい、今日の投稿を締めたいと思う。
何にせよ、人は各々に信じるものがあったとして、それがどんなに魅力的で影響力があっても完全に価値を共有出来ないのだと言うことを理解している。私がペスコベジタリアンな生き方で健康になっても、前提からして違う人の方が圧倒的に多いわけで、私と全く同じようにこの菜食主義の一種を評価出来る人などいるわけが無いのだ。
さりとて何かしらの共感が得られたのであれば幸いに思う。
今日もご飯はとても美味しい。幸せだなぁ。
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