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短編小説:バブル期の日本:帰国子女の間違った処世術

私がその子に気が付いたのは、1987年10月に東京の鷲知(しょうち)大学で行われた入試の面接の時だった。

英語学を学ぶその学科には筆記試験と面接があり、筆記試験をパスした私の所には面接の通知が届いた。

5年間イギリスの北西部で中学生と高校生時代を過ごした私は帰国子女枠で入試に臨んだ。言語学を学んで本気で英語と言う言語に正面から向き合いたい。将来は教員免許を取って教師になるか、または翻訳家か通訳になるという夢もあった。

面接は約10分。たったそれだけの短い時間で結果が出る。どうなるかはやってみなければわからない。

面接の当日は高校の制服ではなく、父が丸居百貨店で買ってくれた紺のスーツを着て行った。

イギリスの高校の制服を着ていくのはあり得ない。学校のエンブレムが付いた水色のブレザーに、やはり水色のギンガムチェックのスカートの制服は、日本の高校の制服とはデザインが違いすぎる。悪目立ちするのはすごく嫌だった。

面接の当日、父が大学まで車で送ってくれた。山手線の真ん中にあるこの鷲知大学はミッション系の大学で、オレンジ色の煉瓦作りの高い尖塔がある聖ザビエル教会が隣接していることで有名だった。

「落ち着いてな。普段の弘子らしさを出せれば面接も上手くいくよ。前にも言ったけど、面接官の前では礼儀正しく。敬語も忘れないように」

運転席から顔を出した父がそう言ってくれた。
聖ザビエル教会と同じオレンジ色の煉瓦で出来た建物へ入り、筆記試験をやった大きな部屋へ向かった。ここで面接の順番を待つ。

部屋に入ると、教室の後ろの方には日本の高校の制服に身を包んだ学生が大勢座っており、教室の前の方の席には学校の制服を着ていない人たちが占めていた。

多分自分と同じ帰国生枠で入る子達だな。クリーム色や紺色のスーツを着た子達が五人ほど集まって座っている。

同じ場所に座ろうか一瞬迷ったが、私は彼女たちとは少し離れた席に座った。固まって座って変に目立ちたくない。

すると、派手なスカイブルーのブラウスに黒のカーデガンを羽織った女の子が、いきなりひそひそ声で英語で喋り始めた。

「Do you see the red book that boy is reading ? I just saw it and it looks absolutely difficult!
I don’t think I will pass this interview if anyone’s been studying that hard!」

それが彼女だった。

唯でさえ制服を着ていないのが目立つのに、この面接の待合室で英語で喋っている。恐らく海外から日本に戻ってきてからあまり日が経っていないのだろう。周囲にいる日本の高校に在学している大勢の学生はどう思うんだろう。悪目立ちしないかひやひする。

面接の順番が来て、私は部屋に入った。入室の際はまず一礼。父からはそう教わっていた。

入り口の向かいの席に座っている日本人の教授が手招きをしている。私はその教授の向かいの席に座った。分厚い書類に目を通しながら教授が話し始めた。

「田川弘子さんですね」

「はい」

「試験はいかがでしたか?どの科目が難しかったですか?」

「どれも難しかったです」

「そうですね・・・いや、どちらの成績も良かったですよ。学校に入るにあたって何か心配事など無いですか?」

「それは入ってみないと分からないと思います」

「そうですか。少し自宅が遠いのが気になりますが、通学に自信はありますか?」

「高校でも通学に一時間半かけて通っていたので問題は無いかと思います」

「そうですか。それでは次にあちらに座っていらっしゃる教授二人と面接をしてください」

私は五人並んでいる教授の一人と話し始めた。その時、大きな声が聞こえてきた。

二つ横隣の席に座って老教授と面接していたスカイブルーのブラウスのその子は、桜や東京の地下鉄について大きな声で話している。自分も面接中なのにも関わらず、あまりの声の大きさと、かなり流暢な英語、しかも私が聞き慣れているイギリスの英語に思わず振り向かずにはいられなかった。

周囲の面接官や受験者もあんぐりと口を開けて二人を見ていた。

「So I will see you in April, then !」教授が言った。

「Ah… I don’t think the result is out yet. But hopefully we would meet again in April if everything goes well」

そう言うと彼女は立ち上がり、「Thank you very much for your time」と言いながら教授と握手をして次の面接官の所へ行った。

次の面接官はイギリス人だったらしく、またもやイギリスの英語が聞こえて来る。懐かしさについ話に耳が傾く。二人の大声に、周囲の席に座っていた受験生達と面接官達も同じくその子の方をちらちらと見ていた。

その子は熱心に自分が大学で学びたい内容を話していた。何を学んで将来どう活かしたいか。随分色々考えて来たのだろう、溢れるように流れ出る話に私は思わず耳を傾けていた。

英語圏の政治と経済、社会学を勉強して、将来はアジアやオセアニアの英語圏の国々と日本のビジネスを繋げる仕事をしたい。そのためには海外の経済や政治を英語と言う言葉を通じて勉強するだけではなく日本の政治経済や社会についても学びたいと言っている。

言語学を専攻して将来は教職に就きたいと思っていた自分とは随分違う人がいるものだ。アジアやオセアニアに興味のある人を見るのは初めてだった私は、次第にその子の言うことに惹かれていった。

面接が終わったのか、彼女は再度面接官と握手をすると、足早に部屋の外に出て行った。

彼女の少し後に面接が終わった私は、そっと廊下を見てみた。するとさっきの派手なスカイブルーのブラウスが目に入って来た。私は思わずその子に話しかけた。

「ねえ,イギリスに住んでたでしょう?」

その子は一瞬眉をひそめて周囲を見渡し、聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で答えた。

「何で?」
「私もイギリスに住んでたんだよ」
「え!本当に?どこ?」
「ブラックプールの近く」
「知ってる!ウインターガーデンがある所だよね。ボールルームダンスの大会、テレビでよく観たよ」
「そっちはどこに住んでたの?」
「ウェリントン。ニュージーランドだよ」
「そうなんだ、イギリスかと思っていたけど違うんだね」

彼女は破顔一笑し、「また会えると良いね。イギリスに住んでいた人に日本で会うなんて思ってもいなかったよ。受験、うまく行くと良いね」
と言って、人差し指と中指をクロスさせた。

「この後どうやって帰るの?」
そう聞かれた私は、父が車で来てくれていることを告げた。
「それじゃあ、また会えるといいね。受験、うまく行きます様に」
そう言うと、その子はもう一度中指と人差し指をクロスさせた。

入試の結果が出るのは早く、11月の頭に私は無事合格の知らせを受け取った。これで四月から進学することが出来る。

日本の高校卒業資格を持っていなかった私には心から安堵する結果だった。
それを持っていなければ就職活動をしても雇ってもらう事すらできないだろう。日本の中学すら出ていない私は、義務教育を途中で放棄したことになっている。それも問題の一つだった。

入試の結果さえ出てしまえば後は4月の入学式を待つのみ。私はイギリスの高校の友達にクリスマスカードを書いたり、たまに国際電話をかけてお互いの近況を話したり、長野のお爺ちゃんやおばあちゃんが待つ家で親戚に囲まれながら久しぶりの日本のお正月を満喫したり、大忙しの年末年始を過ごした。
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「優秀賞は杉浦陽子さん!」
1986年。高校二年の三月、全国英語スピーチコンテストの地区大会にでた私は、念願だった優秀賞を頂いた。観客席で一緒に座っていた英語の高橋先生と、今回のスピーチの特訓をしてくれたアメリカ人のサマンサ先生が私を包み込むようにして祝福してくれた。

小学校から高校まで一貫のミッション系の女子校に通っていた私は、小学校の頃から英語を学校で学んだ。授業では必ず日本人の先生とアメリカ人のシスターが交代で授業を担当してくれた。小学校のうちは文法の他身近にあるものの名前や自己紹介の仕方を学び、中学校では一般の高校よりも進んだ授業内容を行っていた。

授業で教科書を読む時には日本人の先生もアメリカ人の先生も生徒を順番に当てていき、指されたらそこで立ち上がって教科書を目の高さまで持っていき、大きな声で読み上げる。前の晩に辞書と格闘して発音記号を教科書に書きこんでいた私はいつも自信を持って教科書を読み上げていた。

英語の文法は始めのうちこそ苦労したものの、夏休み返上で問題集を解き、ドリルを何冊もこなして、中学二年生の二学期にはテストで満点を取れるようになった。その後も同じような勉強方法を続けていた私は、テストはほぼ満点をキープしていた。

三年生の終わり頃のある日、私は英語の高橋先生から廊下に呼ばれた。
「杉浦さん、英語のスピーチコンテストがあるのだけれど出て見ない?あなたほど優秀な人はいないからぜひ出て欲しいと思ってるの」

それを聞いた私は舞い上がりそうになるほど嬉しかった。

頑張って勉強した結果を大勢の前で見せることが出来る。

私は先生に詳しく話を聞くことにした。

「まずは自分の自己紹介と、どのように英語をと出会ってどのように勉強してきたかを自分の言葉で書いてみてね。原稿が出来たら先生がチェックします。その後はサマンサ先生が発音の練習を一緒にやってくださる事になっているの。スピーチの長さは3分。どう?イメージは掴めたかしら」

自分の言葉で何かを英語で書くのは初めてだった。穴埋め問題や三択の文法試験や、教科書に載っている文章を読むことはあっても、「書く文章」を作るなど思ってもいなかった。てっきり先生たちが用意したスピーチを読み上げるだけだと思い込んでいたからだ。

私は2週間かけて原稿を書いてみた。最初のページを書くだけでも4日かかった。自分の名前の言い方などは分かるのだが、自分を紹介するなどどうすればいいんだろう。まずは日本語で書いてみて、それを英語にすることから始めた。和英辞書と格闘し、何とかそれらしき3分間の原稿がやっとできた時は嬉しくてならなかった。

勇んで高橋先生に原稿を渡すと、私は足取りも軽やかに教室へ戻った。

その日の最後の授業が終わるころ、高橋先生から職員室に呼ばれた。

「杉浦さん、良い内容ね。あなたがどれだけ英語が好きなのか良く分かりますよ。文法や自然な文章にするために直しを入れておきました。来週の火曜日の午後にサマンサ先生と一緒に実際に声に出す練習をしてみましょうね」
そういうと、先生は書き込みで真っ赤になった私のスピーチ原稿を手渡した。

ショックだった。あれほど文法には自信があったしスペリングにも自信があったのに、目の前にあるのは言葉の選び方の間違いや、正しい文法としておかしな所が、ほぼすべてのセンテンスで赤字で示してある。先生からのアドバイスも書きこんであった。

曰く、英語は論理的な言葉なので、作文をするにも論理的思考を身に付けなければならない。練習が進んで書き直したくなったらいつでも先生に相談するように、との事だった。常日頃から自分は論理的だと思っていた私には、腑に落ちない一文だった。

火曜日が来て、サマンサ先生のレッスンが始まった。サマンサ先生はカソリックのシスターで、60歳は超えていただろうか。温和に見えながら目力の鋭い先生だった。

「杉浦さん、まずは自分の出来る範囲の所で良いから、スピーチを全部読み上げてください」

一から教えてもらえるわけじゃないんだ。私は普段教科書を読むのと同じく、原稿を読み上げた。サマンサ先生は少し厳しい顔でメモを取りながら私のスピーチを聞いている。

3分経ってスピーチを読み上げると、サマンサ先生はおっしゃった。

「読むスピードはとても良かったと思いますよ。あとは発音を周囲に伝わる様に治していきましょうね」

私はこの言葉が何を意味しているのかが分からなかった。普段教科書を読み上げる時に英語の発音について指摘されたことが無いからだ。

「まずは最初の所から。My name is Yokoは,マイネームイズヨーコではなく,マィネイムiz ヨーコ」と行って見ましょう。Myは最初の音の“ま”にアクセントを置いてね。ネームは“ネイム”と言いましょう。語尾は“む”では無く,唇と閉じてmの発音をするだけで十分。アルファベットではne―muになるけれど、発音記号では「néɪm」となります。今からお手本を言いますから、続けて言って見てください」

私はサマンサ先生の後に続いてもう一度同じ文章を読み上げた。

「うーん,あと少し!Nameがまだne – muになっているかな。isも最後のZの子音をしっかり発音しましょう。izu,と語尾に母音のUが入ってしまっていますよ。

結局 My name is Yokoを言える様になるまで30分以上の時間がかかった。

それから、二日に一度はサマンサ先生が時間を作ってくれ、私の発音の弱い所を治してくれた。

「Canは「k`æn」ですよ。アクセントの位置と,æの発音に気をつけて。
Haveの発音も「Hæv」ですよ。同じæの音が出て来るからおさらいしておいてね。

あと語尾のvは「bu」と聞こえるので注意してね。下唇を噛んで発音するのよ。

Betterは「béṭɚ」になります。「beta-」ではなく,最後の子音のRをはっきりと発音しましょう。

一字一句直される発音。正直言って英語に対する私のプライドが粉々にされたが、もうこうなったらサマンサ先生のいう事を攻略するしかない。

半年かけて発音や、どの言葉を強調するか、どこの文章を滑らかに言うかなど微調整をしてもらい、私はスピーチコンテストの地区大会に臨んだ。

地区大会は残念ながら入賞すらすることが出来なかった。

何度も大会に出ているのか、入賞者の上級生たちのスピーチは堂々としていて、サマンサ先生が言っていたような大げさな身振りや手振りが入っている。

これを機に、私は英語スピーチサークルに入った。中高一貫の学校らしく、部員は中学生から高校生までが一緒に活動している。発音はサマンサ先生ともう一人、アメリカからいらっしゃったセオドア先生が担当してくださった。

二人とも発音に非常に厳しい先生たちだった。

「たかがスピーチだと思わないでね。あなた達が将来アメリカに行くとなったら、あちらの方は皆さんが英語を喋ると考えるの。そんな時に日本語アクセントで話しかけても聞いてもらえない可能性があるから、発音だけでもしっかり学んでくださいね」

これが二人の先生が何度も仰っていたことだった。

将来アメリカに行く。
この一言が私の気持ちに拍車をかけた。
少しでもアメリカ人の英語に近づきたい。

スピーチもやりながら私は幾つもの問題集を解いて行った。単語帳も幾つも作り、参考書で覚えきれない所はマーカーでびっしりと線を引いた。

英語を学びたい。私は世界史や古文の授業中もこっそり英単語集や英文法の参考書を開き、英語に没頭した。世界史や古文なんて、ゆくゆくは英語を使う大学に進学するときにはなんの役にもたたない。私が受験すると決めている鷲知大学や関東外語学園大学の受験科目には古文も世界史も入っていない。

セオドア先生のレッスンは本当に厳しかった。

アメリカ人らしく聞こえるように、
「Rは軽いdの様に発音しなさい」から始まって、
「Rの巻き舌を練習してきなさい」
「Vの音が聞こえない。BUになっていますよ」
「Thの音が全く聞こえませんよ。Saでもなければzaでもありません。舌を噛んで発音しなさい」
「イントネーションがおかしい。アメリカ人の様に話したかったら日本語のイントネーションの英語は使ってはいけませんよ」
「アメリカの映画をもっと観て、台詞を全部覚えなさい。話し方にとにかく気を使って」
いかに指導が厳しくとも、私はアメリカの言葉にどんどんのめり込んでいった。

そして高校二年生の3月、私は無事全国英語スピーチコンテストの地区大会で優勝を勝ち取った。何にも変えがたいこの嬉しい経験を元に、私は来る大学受験のために私は赤本を開いた。

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冬はあっという間に過ぎ去り、気が付けば空が薄青く曇り、桜が咲き始め、大学の入学式がやって来た。

父が家のドアの前まで車を廻してくれていた。母も助手席に座っている。

「弘子、改めておめでとう。さあ、早く乗って」父が運転席の窓から言う。

「聖ザビエル教会を見られるなんて嬉しいわ。ヒロちゃん、式が終わった後は懇談会よね。その時は父さんと母さんは大学の中を見て回っているからね」

私が後部座席に座ると、父が車のエンジンをかけた。自宅のある聖蹟桜ヶ丘からは車でもかなり時間がかかる。

父も母も私が鷲知大学に入る事を望んでいて、私よりも二人の方が盛り上がっていた。父が念を押す様に言う。

「懇談会では周りの生徒さん達に合わせるんだよ。弘子は心配ないと思うけれど、日本にない習慣や行動は慎むこと。初日にイギリスに居たことが周囲に知られると友達が出来なくなるかもしれないからね」

日本にない習慣は慎む。けれども、約一年離れているイギリスが恋しくなっているのも確かだった。コントロールするよう、自分に言い聞かせた。

大学の門には「昭和六十三年度鷲知大学度入学式」の看板が立て掛けられ、私は父と母と一緒に写真を何枚も取ってもらった。

入学式は大講堂で11時から行われた。大勢の一年生がひしめく講堂で、私は父と母に挟まれて席に着いた。

学長先生やその他の先生方の祝辞を受け、その後父と母と別れて、学科ごとに懇談会の行われる部屋へ行った。あまり広くなくコンパクトなキャンパスなので、目指す590号室はすぐに見つかった。

懇談会の部屋に行って受付で名前を言うと、小さな紙を渡された。「グループになるときに使いますからね」とのことだった。思ったよりも早く来てしまった様で、部屋の中には殆ど人がいない。

私は例のスカイブルーのブラウスの子を探した。もし受験に受かってこの大学に来ていればもう一度会えるかもしれない。部屋の中の顔ぶれを見る限りは、彼女は来ていない様だ。

この大学に入学するのかな。それとも他の大学に行ったのかな。そんなことを考えながらのんびり10分ばかり待っただろうか。

紺色のお仕着せの様なスーツを着た、あの子が受付に来た。

私は入り口まで行って様子を見ていた。受付が終わって顔を上げたその子は、私を見るなり大声で叫んだ。

「Oh my goooood !! Are you really ?」

英語丸出しだった。第一声がこれとは。

恥ずかしくて「Yeah」とだけ答えた私を、「Well done! We’ve made it!」と言いながらその子は思いっきりハグをしてきた。大げさだけどよほど嬉しかったのだろうか。

ちらっと見ると、部屋の奥にいる人たちが皆こちらを見ている。正直恥ずかしかった。ここまで外国の習慣丸出しなのは正直言って勘弁してほしい。同時に,この人もまだ外国ずれしているんだろうなという自戒の念もこみあげてきた。

すると二人の女の子達が近寄ってきた。イギリスに住んでいたのだろう。聞き覚えのあるイントネーションと発音で「I see a British is taking pride on」と話しかけてくる。

私にしがみついていたその子は「I see another British is taking pride on」と言い、イギリスとニュージーランドのどこに住んでいたか軽く話した。一人はロンドンの近く。一人はマンチェスターの近く。二人共十年殆ど住んでいたそうだ。百人近い人数のいるなかで、懐かしい訛りの英語を話す人が三人もいたのには私は驚きを隠せなかった。

イギリスやオーストラリアのテレビ番組などの雑談が始まった所で、側にいた教授が私達の話を遮った。クラスごとの懇談が始まるという。入り口で渡された紙にはクラスの番号が書かれていた。私たちは握っていた紙切れを見てみた。

残念ながら話しかけてきた女の子達は1つレベルが上の2組だったが、私とその子は同じ3組だった。

十五人ばかりの小さなクラス。これが私たちが一年間一緒に過ごす仲間たちだ。

私が面接で出会ったのは稲葉咲と言う名前で、とにかく喋ることに積極的な人だった。懇談会でも積極的に周囲と話し、英語で話しかけてくる外国人教授とも英語で話していた。

どんなバックグラウンドがある人がいるのか分からないうちから、あんなに英語を使って大丈夫なのかな。私はそっと周囲を見渡した。案の定、同じクラスの人ばかりか他のクラスの人達も咲の事を見ている。

でもこれで少し安心した。咲が同じクラスにいれば私一人が悪目立ちすることは無い。

咲はお父さんの仕事の都合でご両親よりも先に日本に帰国し、受験中は一人暮らしだったという。自炊して、夏休み期間は海外で学校に行っていた生徒用に日本語を教える塾に通い、それ以外は1人で受験勉強をしていたそうだ。

「受験の結果は親に電話をかけて知らせた。国際電話だったから、素早く「桜咲く」と言っただけ。あとはエアメールで報告したよ」と言っていた。どうりで面接の時の服装がおかしかったはずだ。アドバイスする人が身近にいなかったのだろう。
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「次の方,どうぞ」

そう言って促され、私は鷲知大学入試面接のための面接室に向かった。

ノックは2回まで。ドアを開けたらきちんと一礼。後ろを向いてドアをしっかり閉める。受験対策で先生と何度も練習してきた動作だ。

紺色と白のセーラー服の制服も、母が綺麗にほこりを払い、きちんとアイロンをかけてくれている。ひざ丈の白いソックスも買いたて新品のものを履いてきている。オールバックにしてポニーテールにまとめた髪も乱れていない。おかしなところは何もないはずだ。

入り口の向かいにいる教授の手招きで、私は教授の向かいの席に座った。

「杉浦陽子さんですね?」
「はい」
「試験はいかがでしたか?どれか難しい科目はありましたか?」
「エッセイが難しかったです。それ以外は特に難しいとは感じませんでした」
「そうでしたか。全体的な成績はいいですよ。ご自宅も大学から近い様だし、問題は無いでしょう。それではあちらに座っている面接官の中から二人と面接をしてください」

面談で聞かれる質疑応答は、高校の英語の先生の予測の元、ある程度の答えを丸暗記してきた。

「なぜこの学校を選んだか」
「大学では何を勉強したいのか」
「自分の好きな科目は何か」
「将来やりたいことは」

この質問に対する答えを英語で書き、サマンサ先生に添削してもらった。これだけ準備してくれば、面接もきっと通過できるに違いない。

それに小学校からコンスタントに英語に触れてきた私は、面接官が英語で話しかけてきてもきっと聞き取れるという自信があった。

こちらを見て手を振っている面接官の前に座る。

「Xxxxx xxx xx xxxxx ? Xxx xx xxxxx?」

面接官が何かを言っているが、全く聞き取れない。こんなことがあるとは予測していなかった。

「I don't understand your question. Could you repeat ?」と言ってみると、また同じ言葉が帰って来た。

三度同じ言葉を繰り返して言ってもらったところで、やっと
「初めまして。お名前は何ですか?試験はどうでしたか?」と言っているのがぼんやりと分かった。

まさかこんな簡単な質問が来るとは夢にも思っていなかった。

しかし、この質問への回答を用意してきていない。
私は「My name is Yoko. Examination was difficult」と返事をした。
すると次の質問が来る。また全く聞き取れない。
「Xx, xxxx xxx xxx xxxxx xx xxxxx xx xxxx xxxxxxx ?」

これも三回ゆっくり喋ってもらった。どうやらこの大学では何を勉強するのか聞かれているらしい。これは事前に予測してサマンサ先生と練習してきたはずなのに、対応が出来なかった。

私は用意してきた返事をした。
「I want to study American culture and English language」

間髪入れずに面接官がまた分からない質問をしてくる。

永遠に続くかと思われる5分間。ようやく一人目の面接官から解放されてもう一人の面接官の所に行くと、また同じ現象が始まった。

何を言われても聞き取れない。ゆっくり話してもらって三回目にやっと聞き取れるようになる。少なくとも頓珍漢な返事はしなかったと思う。

ほんの少し面接官が早口で話しただけでこんなに聞き取りが出来ないとは思ってもみなかった。ふつうこのようなスピードで話すのだろうか。

腑に落ちないまま、最後の面接官に「Thank you」と言われ、手振りで立ち上がる様促され、私は席を立った。

こんな面接で本当に受かるのだろうか。自信を無くした私は、車で迎えに来てくれた父と母の前で泣いてしまった。運転席から父が言う。

「大変だったね。でも日本語を使わなかったんだし、相手の言っていることを理解しようと頑張ったんだから、学校側もやる気を認めてくれると思うよ。分からない事は分からないと言う。とても大事な事だと思うよ」

そうは言っても、あれだけサマンサ先生と事前の練習をしてきたのに簡単な英文すら聞き取ることすらできなかった私は、しばらくの間落ち込んで、なかなか頭を切り替えることが出来なかった。次は関東外語大学の試験が控えている。気を引き締めなきゃと思っても今日のショックから立ち直るのにしばらく時間が必要だった。

それだけに、鷲知大学から合格通知を貰った時の嬉しさはひとしおだった。父も母も、近くに住む祖父母も皆が大喜びをしてくれた。通知を受け取った日は、母と祖母が腕によりをかけてちらし寿司のご馳走を作ってくれた。

合格通知が出ると、あっという間に卒業式の日が来た。体育館に卒業生と在学生、そして父兄が集まった。校長様からの祝辞を頂き、私達は卒業証書を胸に最後の校歌を歌って、六歳の頃から慣れ親しんだ学校に別れを告げた。

卒業式から数日で、私は両親と祖父母と共に鷲知大学の門をくぐった。祖母や母が憧れていた大学とあって、二人共涙を隠さない。。四人に囲まれて私は大講義室での入学式に出席した。まだ始まったばかりの学生生活なのに、感無量の涙が出てくる。

私はこの日のために買ってもらったブルックブラザーズのオーダーメイドのスーツと、ラルフローレンの白いシャツ、グッチのローファーを履いた。

大学には制服が無い。フォーマルを仕立てるのは初めてでは無かったが、大学にはきちんとしたものを着ていきたい。祖父母はこのスーツ以外にも普段の通学で使うシャネルやルイ・ヴィトンのバッグや小物、それにちょっとした式典に来て行けるオーダーメイドのスーツを買ってくれた。

式が終わって、学科毎の懇談会が始まった。大きな会場には高校の同級生もちらほらいて、お互いに合格を喜びあった。

その時だ。部屋の入り口から叫び声が聞こえてきた。部屋にいたほぼ全員がそちらを向いた。

「Xx xx xxxxxxxx ! Xxx xxx xxxxxx ?!」

どうやら英語で喋っているようだ。離れているせいか何を話しているかは解らなかったが、日本の大学に来て日本人同士なのに英語で話す非常識な人がいるとは思っても見なかった。

いくら学科で英語を専攻しようが、ここは日本なのに。なんで日本人同士英語で英語を喋っているんだろう?しかも、外国人みたいに抱きついている。何のつもり?

クラス毎の懇談が始まった時には、英語を話す非常識な人はいなかった。さっきの変な子は別のクラスに行ったらしい。

懇談会が終わると、私は両親と祖父母と一緒に、お祝いのディナーに行くために銀座を目指した。

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講義が本格的に始まった。私は咲と大学の9号館ピロティで待ち合わせし、専門教科の英会話のクラスに行く。教室の前には外国人の老教師が立っていた。咲が教授に向かって「Class 3 ?」と尋ねると「3rd class」と呼ぶのだと直された。私達はそっと教室に入った。まだ誰も来ていない。計らずも一番乗りになったらしい。

咲は日本での習慣がすっぽ抜けているのか、椅子に座ればいいものを、教室に輪を書いて並んでいる机の上に腰を掛けると、椅子の上に足を起き、完全にリラックスしながらこちらになんだかんだと話しかけてきた。ジーンズにコンバースのバスケットシューズ、上はGジャンに鮮やかな緑色のTシャツを着ている咲は、この大学の女の子の中では浮いて見える。
 
机の上に座るのは私もイギリス時代はやっていたけれど、ここは日本だ。椅子の上に足を置いたら汚い。周りの子が嫌がるだろうな、と思っていた所で他のクラスメイト達が入って来た。その途端、咲は勢いよく机から飛び降りると、自分が足を乗せていた椅子に座った。咲が椅子の上に足を乗せていたのは、多分誰も見ていない。

最初の授業は各生徒の自己紹介と教授の日本でのこれまでの生活についてのお話だった。

咲は自分の事をあまり語りたがらず、出身はどこかと尋ねられても「埼玉」としか答えない。教授が「So where did you live before coming to Saitama ?」と聞かれたところで面倒くさそうにぼそっと「Wellington」と言っただけだった。

クラスには他にもアメリカやカナダに住んでいた子達がいたが、その他は日本で過ごしてきた人達だった。私はなるべく目立たないようにして、日本では誰も知らない「ブラックプール」という所に住んでいたと一言言うだけにした。

その後は教授の自己紹介が始まった。スコットランド出身のカソリックの神父であるその老教授は、今年で日本に住み始めて30年になるそうだ。18才の私達よりもはるかに長く日本に住んでいる。

へえ,と思って聞いていた所、咲が要所要所で質問をした。

「How did you come to Japan? 」
「By cruise ship」
「Did you pass through the Suez canal?」
「No. We went Southward and passed Cape Town, then headed North to India」
「So it was before the Suez, then ! How long did it take from Scotland to Japan?
「About 6 months. I left from the port of Marseille. There were many ports of call」

咲があまりにも沢山質問するので私は少し心配になった。本当は他の生徒も喋りたかったんじゃないかと。周囲への配慮が欠けている咲の態度が少し気になった。

すると教授は「Anyone else has any question?」と言った。だれも机から目を上げない。

咲が手を上げたが、教授から止められた。

「You've already asked lots of questions. Anyone else? Or shall I point you out?」

そう言って教授は生徒一人一人を当てて行った。「No」の回答が大半で、アメリカに居た子もカナダに居た子も返事は「No」だった。中には「何の話をしていたのか分からない」と日本語で言った生徒もいた。

今の話の内容が聞き取れていない人もいる。これはもう自分は話さないほうが良いと悟った私は、教授からあてられない限りは喋らない事にした。下手に英語を使って目立つようなことになったら、それこそ教授から目を付けられて大変なことになる。毎回授業で自分だけ発言しなければいけなくなるのも嫌だった。

講義が終わると、教授は咲を引き留めた。

「You are the one that I traded with B class !」

「Me ?」  

「Yes. I hope I wouldn't have harmed your future」

「Well, I hope I would meet your expectation. But why did you swop me ? I'm sure you swopped the top one and bottom one. But why did you do it?」

「I thought you would speak during the class」

咲はもともと2クラスだった所を、教授同士のトレードで一クラスさげられた様だ。

次の授業は英文学の授業だった。このクラスは、私たちのクラスともう一つの4th クラスが合わさり、全部で30人近くが一緒に勉強する大所帯だった。
生徒に有無を言わせないワンマンな、やはりカソリックの神父のアメリカ人老教授が仕切るそのクラスでは、第一回目にアメリカの詩を読んだ。桜についての詩だった。

私は教授からプリントの束を渡され、一枚とって後ろに回すように言われた。

へえ,こんな詩があるんだと思っていた矢先に、咲が手を上げて質問の許可をとった。

曰く、アメリカの桜は何色なのかと。日本の桜は白にかすかなピンクがあるものだが、ニュージーランドの桜には様々な種類があり、九月になると八重桜で濃いめのピンクの花が咲くという。他の桜は日本の桜より小さな花を咲かせると言う。

彼女の言わんとする所はピンと来た。私はイングランドでソメイヨシノの様な繊細な桜は観たことが無かったし、少し似たような花をつけるアーモンドの白い花を見るたびに日本の四月に咲くソメイヨシノを懐かしく思い出したものだった。

教授は、「アメリカにも日本の桜がある」と言い、その由来を説明してくれた。

100年程前にアメリカのワシントンに住む人が日本の桜を輸入した。病気で枯れてしまったりしたことも合ったそうだが、今もワシントンには日本から持ちまれた桜があるという。

アメリカと日本の交流の歴史の面も分かってきた。ワシントンの青空 -行ったことがないので想像だが - その下で咲く、ほんのりとピンクに染まった白い雲のような桜。愛らしい桜。それを愛でるアメリカに住む人たち。想像するだけでも桜好きの人の感動が伝わってくる。

その後も咲はアメリカの桜について知りたがったが、教授は「これで質問タイムは終わり」として、あとはレクチャー形式の授業が進んでいった。

詩はA.E.ハウスマンというイギリスの作家が書いた詩で、桜を知っている日本人には分かりやすい詩との事だった。するとこの詩で描かれているのはピンクの八重桜なのだろうか。

咲はルーズリーフの紙に教授の仰っている事をメモしている。

クラスの大半はアメリカから輸入されたB4サイズの、黄色やピンクの華やかなルーズリーフを使っているのに、咲は頑として白のA4サイズのルーズリーフを使っていた。しかもリサイクル紙の、少し濁った白のルーズリーフ。

「これが一番手に入れやすいからね。環境にも多分優しいから」それが口癖だった彼女は、青いリングファイルにメモを取ったページを大切に挟んでいった。

90分の授業が終わり、やれやれと腰を上げた所、部屋の反対側に座っていたポニーテールの女の子がつかつかと咲に近寄ると、教室全体に響き渡るような割れんばかりの大声で「あんたの英語は間違ってるのよ!!」と怒鳴りつけた。

そのあまりの剣幕に一瞬何事かとぽかんとしたが、ポニーテールの子はまだ咲を睨み付けている。周囲では我が意を得たり、と言わんばかりに頷く子達が大勢いた。

すると咲は「それはどうも」と言った挙句に、「Would you say that again in English ? 」と言ってその子を見つめた。咲が英語で何を言っていたのか分かったのか分からなかったのかは定かではないが、ポニーテールの子は黙り込んでしまった。そうして咲は無理やり話を終わりにしてしまった。

私は一瞬何が起きたのかすぐには呑み込めなかったんのだが、周りの話を聞いているうちにどうやら咲の英語がイギリス式の発音の為、「アメリカ英語ではないから、英語が間違っている」という話になった様だと理解できた。理不尽な叱責に、少し腹が立った。

私は咲に言った。「私,今のは酷いと思うよ。咲の英語は間違ってないし、あんなこと言われる筋合いはない」

「間違った英語って事になるんだね。でもあそこまで言っておいて、英語で話しかけられて英語で返せない人の言う事になんて耳を傾けたくない」

そう言うと咲は、

「ヒロちゃん、ありがとうね。次の授業、離れの校舎だから走らなきゃ。また今度一緒にお昼食べよう」といって階段を走り降りて行った。

咲と話して少し気持ちは落ち着いたが、心の中ではかすかに迷っている自分がいた。いくらさっきの叱責が理不尽だと分かっていても、だ。現実は現実。日本で使っている英語を使わないとあんな叱責が待っているんだ。

これを切っ掛けに私はアメリカ英語に少しづつ耳を傾けるようにした。さっきの様に怒鳴りつけられたくないし、日本ではイギリスの発音よりもアメリカの発音の方が通じやすいと聞く。将来学校で英語を教える時にも役に立つかもしれない。それに英文学の教授はアメリカ人だし、そこから学ぶことも多いことだろう。いつまでたってもイギリスの片隅にある高校生ではいてはならない。日本にある大学の学生にならなければ。

**********************

「Yoko Sugiura?」
英会話クラスの担任のチャーリー先生が出席を取り始め、私の名前を呼んだ。私は自信を持って答えた。
「Yes, teacher」
「Charlie will do」
何を言ったのか分からない。私が戸惑っていると、先生は立ち上がってゆっくりと言った。
「Everyone, call me Charlie. You don’t need to call me “teacher” all the time」
良く聞き取れないが、チャーリーと呼べと言っているらしい。高校まで英語の先生たちは日本人もアメリカ人も日本語で授業をしてきたので、先生に返事をするときには「先生」、もしくは「シスター」と言っていた。それを先生のファーストネームで呼べと言う。

あまりのアメリカらしさにクラス中が感嘆の声を上げた。

チャーリー先生はアメリカのカリフォルニア出身で、日系四世のアメリカ人だ。見た目は日本人と全く見分けがつかない程アジア人の顔をしている。鷲知大学では言語学の博士課程にいると言う。「出来ればここ鷲知大学で博士になって、日本人の英語学習について研究をしたい」と言っているそうだ。同じクラスで仲良くなった智恵という、アメリカに三年住んでいた子が通訳してくれた。

チャーリー先生はアルバイトで日本人に英語を教えた経験のある方で、日本人が自発的に質問をする習慣がない事をご存じだった。生徒が自己紹介する時も、その後の質疑応答でも、生徒全員が発言できるようまんべんなく生徒を指名して発言するチャンスをくれる。

チャーリー先生の英語はサマンサ先生の英語と少し異なり、聞きづらいと感じることがあったが、アメリカ人の標準的なしゃべり方には変わらない。
やる気がでた私は、自分が自信を持って発言出来るように、先生からの質問に頭をフル回転させて答えを考えた。

質問がでて、それをすぐに理解することも難しい事があったが、チャーリー先生は根気よく話す速度を落とすか、黒板に板書して教えてくれるか、などと生徒と積極的にコミュニケーションを図ってくださる先生だった。

質問は簡単なものが多く、「鷲知大学は東京のどこにありますか?」「大学はカソリックの大学ですか?」「皆さん、英語は好きですか?」といった、頑張って聞けばわかるような質問をしてくれる。
私は自信を持って「Yes!」と答えた。アメリカ人の先生からの質疑応答に自分が答えている。こんな日が来るとは思わなかった。心底嬉しかった。

次の授業は英文学だった。高校でも英文学史のさわりは勉強してきている。シェイクスピアでもディケンズでもスタインベックでもなんでも来い。名作ならどんなものでも大まかなストーリーは知っている。どんな授業になるんだろう。副読本はあるんだろうか。そんなことを考えながら、大教室に行った。

教室の半分は3rdクラスの人達がすでに着ていて、窓側に着席している。私達4th クラスは空席のあった廊下側を陣取った。

授業開始の少し前になると、年老いた男性教授がプリントをたくさん抱えて入って来た。

「Xxx xxx xxx xxxxx xx xxx xxxx xx xxx xxxx? Xxxx xxxxxx xxxx」

早口で何かをおっしゃった。智恵が、「前の方の席に座りなさいって」と訳してくれた。

全員が二列ずつ前の席に移動する。3rdクラスの人の中には教授のすぐ前の席になった人達もいた。第一回目のクラスなのにあんなに近くに居て緊張しないんだろうか。

すると教授は持ってきた紙の束を最前列に居た人に渡すと、「Xxxx xxxxx xx xxx xxxx」と言った。「あの紙を回してくれるんだって」智恵がそういう。
文学で最初っからプリントか。廻って来たプリントには「Cherry Tree」と題名が書かれている短い文章が載っていた。

桜の木。下に続く文章は、普通の文章ではなさそうだ。まごまごしていると、教授がそのプリントを読み上げ始めた。速い。ものすごく速いスピードで読み上げていく。

読み終わった教授は、今度は長い言葉でどんどん何かを話していく。すると、教授の斜め前に座っていた女の子が手を上げて教授と話し始めた。これもかなり長い。

しかもこの子の英語はどこをどう見ても変だった。少しカタカナ交じりの様な、と言って発音がめちゃくちゃだった。とにかく間違っているのだ。

aeも発音できなければdに近いRの発音すらできていない。耳に障るくらいにきつい子音が並び、巻き舌のRもそのまますっ飛ばすなど、間違いだらけの英語で話している。それに輪をかけておかしい事に教授は注意もせず、そのままその子と話を交わしている。私の居た高校のスピーチクラブだったらセオドア先生からきついお叱りが出るはずの発音だった。

「ねえ,あの子の英語、間違ってるよね」後ろにいたクラスメイトがささやいた。

「なんであんなにできないのに偉そうに喋ってるの?」

「教授も教授だよ,なんで注意しないんだろう」

「うちの高校だったら確実に発音直されているよ」

「文法もおかしくない?あんな風に副詞や形容詞ばっかり使わないよね,普通?」

皆の言っていることは全部正しい。今まで私たちが高校で受けてきた授業ではあんな英語は許されていなかった。それに自分だけだらだらと喋る人など初めて見た。普通、質問があるなら簡潔に短く話すものではないの?

英文学の講義のはずなのに、間違った英語でぺらぺらと話す同級生。もっと英語が上手い人たちが大勢いる中で、さも出来ていると言わんばかりの口調で教授と話している。

怒りが込み上げてきた私は、授業が終わると同時にその子に歩み寄り、はっきり言ってやった。

「あんたの英語は間違ってるのよ!!」

周りも私の意を汲んで頷いてくれている。

それなのにその子は、しれっと「それはどうも」と言い、続けて「Xxxxx xxx xxx xxxx xx xxxxxx ?」と言ってこちらをしばらく見ていた。

何を言われたのか分からず私がまごまごしていると、その子はまたしれっと姿を消してしまった。

3rd クラスの子曰く、あの子はニュージーランドで暮らしたことがあり、イギリス式の英語だという。

「間違っているんじゃないの?」

「イギリス式の英語って何?」

「イギリスやオーストラリアとかニュージーランドで使われている英語らしいよ」

「でもあんなに間違った発音して大丈夫なの?よく入試を突破できたよね。私が行ってた学校だったら確実に赤点だよ、あんな発音」

その時,だれかが後ろの方でささやいた。

「イギリス英語ってことは、クイーンズイングリッシュってことよね。聞いた事があるんだけど、イギリス英語は優雅で美しくて丁寧な英語だって。ビジネスでも使える英語だってことも聞いたことがあるよ。外交官もクイーンズイングリッシュを学ぶって言う噂も聞いたことがある」

今まで聞いたことも無いイギリス式の英語。イギリスが何処にあるどんな国なのかもわからないが、その英語にいくつものアドバンテージがあるなんて夢にも思わなかった。

「ねえ、あの子のしゃべり方を聞けるようになった方が良いんじゃない?将来役に立つかも」

そう聞いて、私は少し反省した。間違って聞こえる英語かもしれないけれど将来役に立つなら聞いてみても悪くはないんじゃないだろうか。
***********************
「ヒロちゃん!こっちこっち!」9号館ピロティの隅で咲が呼んでいる。

一週間が過ぎ、次の英文学の授業の時間が来た。私はまた咲と待ち合わせた。教科書に指定されていた「To Kill a Mocking Bird」という本を片手に講義室へ入った。

教授からは授業が始まる前に一応本に目を通してこいと言われていた。

私はこの本を授業で扱っている限り、発言は控えようと心に決めていた。私はこの本をイギリスの高校ですでに読んでいた。中身は覚えている。そんな私が発言したらそれこそフェアではないだろう。

授業が始まり、主人公がなぜ子供に設定されているかの質問が教授から出た。

案の定先生の質問に答える人は出ない。そんな時、カソリックの神父教授が咲を指した。すると咲はこのように答えた。

「Father, that one over there with ponytail can answer to your question perfectly」

例の,咲の英語が間違っていると指摘した子の事だ。

「Is that so? You, there, what’s your opinion ?」

指名されたくだんのポニーテールの女の子は焦る一方で、一言も口から声が出てこない。「Well… I…. 」で止まってしまうのだ。本に目を通してきているんだろうか。恐らく通してきてはいないのかもしれない。可愛そうだけれど、予習をしてきていないのなら自業自得である可能性が高い。

教授はしばらく経って,もう一度咲に質問を振った。

「How about you? What’s your opinion?」
「You’re not gonna say that I’m a chatterbox?」
「No」

「Well, then. The protagonist is a young girl, perhaps it is to make it easier for the reader to understand the story well. She doesn’t have that much presumption on racial issue or adult’s problem. I also heard that this is a semi-biography of the author, so it is natural that the protagonist should be a young girl if the author was writing about her own experience when she was young.」

教授と咲の質疑応答は続いた。読んでいる人と呼んでいない人の差が出てしまったようで、授業が終わった後、私まで「今日の授業で何の話をしていたか分かった?」と質問をされる始末だった。大勢のクラスメイトに囲まれた私は、咲と教授が話していた事をはしょって説明した。

「主人公が小さい女の子なのは、読み手に理解しやすくするため。小さい子なら大人の世界の偏見から自由だから。それに作者の自伝的要素があるから、作者自身の経験を書いているのかもしれない、だって」

ごった返した教室で私は咲を探した。授業はとうに終わっていたが、咲は黒板の前のデスクで教授と話をしている所だった。

「・・・ why did you say that the girl with ponytail can answer the question ?
「Because she said my English is wrong. Which obviously means that she uses correct English」
「Have you heard her speaking in English?」
「No」
「So it’s not fair, is it? You don’t know if she speaks good English or not」
「That’s none of my business. Those who can condemn other ‘s language is wrong, are surely a good user of the language」
「But she couldn’t say anything today」
「That’s her problem, not mine」

真面目な咲は、強気でもあった。やられたらやり返してしまう所が彼女の悪い所なのかもしれない。

クラスは少しずつ進んでいった。例のポニーテールの子は英文学の先生に引き続きあてられ続けたが、一年間自分の意見を英語で話すことは無かった。

質問を受けるとかならず詰まってしまい,「Well…」で止まってしまうからだ。

ある時は「I don’t understand your question」と言ったが,その後に続く教授の説明を聞いても、その説明自体が分からなかったようで、どんどん泥沼に落ち込んでいってしまう。

私は見ていて少し気の毒になったが、予習をしてきていないのと英語の発話が出来ないので会話のレッスンでもこのような状態なんだろうな、と想像した。

***************

講義が始まって最初の一週間が終わった。私は大学の購買で買った英文学で読む「To Kill a Mocking Bird」という本を片手に電車に乗っていた。著者はHarper Leeという。聞いたことの無い作家だった。これを次の授業までに目を通してこいと教授から言われていた。

一ページ目を開いてみても何が書いてあるのか分からない。

週末を使って辞書を引きながら読んでみた所、これは子供の話の様だ。10ページ程読んで、本を放り出した。これは本当に文学なのだろうか。文学ならもっと高名な著者による有名な作品を読ませてくれてもいいと思うのに。

次の英文学の授業が来て、私はルイ・ヴィトンの鞄に本を入れ、智恵と一緒に教室へ行った。部屋の中には「To Kill a Mocking Bird」の派手なオレンジ色の本を片手にしている人達が何人もいる。本当に目を通してきたのか疑問だった。

授業が始まり、教授が何かをずっと喋っている。本についてなのか、なんなのか。分かりかねている所に、前回発言したニュージーランドにいた子が教授に当てられた。するとその子は短く何かを返した。

途端に教授は私たちが座っている廊下の側の席を向くと、何かを言い出した。ふと見ると、教授と私の目がかち合う。智恵が横から、「陽子ちゃん,当てられてるよ!」と言ってくれるまで気が付かなかった。

当てられていると言っても質問が分からない。

何かを言わなきゃ。そう、質問が分からないって・・・

焦った私は、「質問が分からない」を英語でどう言うかすら忘れるほど頭の中が真っ白になっていた。

「Well, I…」

かろうじて英語が口をついて出たが、「質問が分かりません。もう一度言ってください」の一言すら言えなかった。

何が起きて何故私がいきなり教授に当てられたのかは結局分からないままだった。

それ以降、教授は必ず私に質問を投げかけるようになった。家で練習してきた「 I don’t understand your question」と言って見るものの、そもそも何の質問をされているか分からない状態だ。教授が微に入り細に入り説明してくれているようだが、その説明の内容すら聞き取れない。毎回こんなことが続いて頭の中が真っ白になることが続いた。

教授が短い言葉でゆっくり喋ってくれても、その単語の意味すら理解が出来ない。

恥ずかしかった。悔しかった。こんな自分をどうにかしたかった。

そんな時に聞こえてきたのが同級生のこんな一言だった。

「麻衣ちゃん、三年生で留学するんだって?」

「そうなの,そのつもりで鷲知に入ったから。ここ,UCCAとかアメリカの大学と交換留学制度があるでしょう?」

「そうよね、新入生歓迎会の時に先輩達が言ってたよね。二年と三年の前期で必要な単位は全部取っておけば、向こうに行った時に自由に勉強が出来るって」

「そうなの。留学して単位が足りないなんて言ったら馬鹿らしいものね。それに言語学に強い大学と交換留学制度があるから、絶対留学の面接には受かってみるつもり」

留学など考えてもいなかった。その日、私は英語の専門誌を図書館で読み、アメリカに多くの大学があることを知った。

今まで考えたことも無かったが、留学して英語が上手くなれればそれに越したことはない。

私はすぐに親に相談し、治安の悪いアメリカの中でも比較的安全と言われる中部の大学に焦点を絞った。そこが難しかったら西海岸にあるUCCA。皆が行きたがる大学であれば、日本人留学生が必ずいるに違いない。留学中、自分に何かあったらすぐに助けを呼べる環境を確保したかった。

***************

夏休みが終わり、10月が来ても咲が授業で大半の発言する状態は続いた。英会話のクラスでも、英文学のクラスでも発言するのは咲が殆どだ。

カナダに居た子が発言をするものの、英文学の教授は「chatterbox(やかましい)」と言って発言をさえぎってしまう事があった。せっかく発言したのに黙らせるなんて,フェアじゃないな、という気がしてならなかった。

咲もなぜ他の人の意見が聞けないのかとイライラしていたが、教授達の教育方針は、「海外で学校に行っていた生徒に話させて、周りの生徒はその話を聞いてリスニングの力を磨く」という手法を取っていた。

でもこれではディスカッションにもならないし、咲はアウトプットするだけでインプットするものが無いとこぼしている。

この海外に出ていた生徒に話させる方式に、他の学生も不満がたまっていた。

なぜ、アメリカの発音の英語が聞けないのか。咲一人が喋っていたらアメリカ人の喋る英語が学べないじゃないか、と。

咲はこの文句を教授たちに相談していた。咲としては他の学生にも喋ってもらいたいし、意見も聞きたい。自分一人の意見しか出ないようでは何のためにクラスがあるのか。質問の仕方も学びたいし、何より授業でディスカッションにならないのに不満を持っていたようだ。

クラスメイトたちの不満にはもう一つ理由があった。彼女たちは三年生になったらアメリカの大学に交換留学に行きたい人達ばかりだったからだ。

咲の話す英語は聞くだけ無駄、咲しか喋らせてもらえない英会話レッスンは無意味。そう言って外部の英会話学校に通う人も出てきていた。

英会話学校だとマンツーマンで授業をしてもらえるし,アメリカ人の先生を指名することも出来る。教授の話すスコットランド訛りのイギリス英語にも辟易しているとまで言う人もいた。

クラスメイトでアメリカに小さい頃に滞在していた子は何を聞かれても自然な発音のアメリカの英語で「Yes」と「No」しか言わない。

どんなに長い質問を受けても自分の考えを言わずにすべて「Yes」と「No」で答えていた。

私はその子に聞いてみた。なぜ自分の意見を言わないのか、と。

「何も意見を言わなくても良い質問ばかりだからね。Yesと言ってそれで終わりだよ」

「でも”No"と言ったら理由を言わなくてもいいの?」

「そんな面倒な事はやらないよ。教授にも聞き方があるってものだよ。YesとNo以外の答えを出させる質問の仕方ってのがあるだろう?それをあの教授はやらない。完全に怠慢だね。

それにこのクラスのくだらないやり取りにエネルギーを使う必要が何処にある?出席するだけで単位を貰えるのに」

それを聞いて私は唖然とした。英会話の授業に出ていてもYes とNoのたった二つの言葉だけを発してそれで済んでいる人がいる。普段から自発的に発言してはディスカッションに肉付けをしていく咲とは考えが真逆だった。出席さえすれば単位がもらえると言うのも初めて聞いた。

咲はニュージーランドには5年という比較的短い期間しか住んでおらず、英語が出来なかった両親のために通訳しなければならない事もあり、それで英語を話すのは苦ではないと言っていた。

「英語が母語の人達の様に喋れるわけじゃないんだよ。でも教授たちからも目を付けられてしまっているし、喋らない事で単位を落とすわけにはいかない」

真面目な咲は結局2年間の必修科目の英会話と英文学の授業では毎回発言していた。

そこはかとない疑問が私の中で渦巻いていた。大学に高い授業料を払っておきながら授業中発言することも無く単位を取っていく同級生達と、何度も発言をしないと単位がもらえない咲。フェアではない状態だ。

時々こそこそと聞こえてくる「たかが外国に住んでいて楽して英語を覚えてきたくせに生意気」「ペラペラなんて羨ましい」といった咲に対する悪口を聞くと、ぞっとした。嫉妬をぶつけられる位なら目立たないに越したことはない。

それにしても楽して得られる言葉なんて無いはずだ。私もそうだったが、咲もかなりの苦労と努力をして英語を勉強してきている。

咲と私は日本を出たのが偶然にも中学一年の時で、最初のうちはとてもではないけれども英語に太刀打ちできなかった。

読めない、書けない、聞き取れない、発言が出来ない。それでも授業は進んでいき、私は帰宅してから授業の復習にとにかく力を入れた。周囲で話していることが分かる様になるまで半年以上はかかっただろうか。

咲は授業だけでは物足りないのか、英語の小説を読む他、毎日日本語と英語の新聞や雑誌も読んでいた。ラジオのFMで放送されている英語のプログラムも聞いているらしい。あそこまで授業以外での努力をしている同級生は咲しか知らなかった。

後期の終わり頃、英会話の教授が「毎年英会話でやっている事」として、詩の暗唱をすると言い出した。英文学で詩を勉強したのに、会話でもやるのか。そう思った瞬間、教授が私と咲を見て、「ワーズワースの詩は?弘子、イギリスに居たのなら暗唱できるでしょう?」とおっしゃる。

その時,咲の目がいたずらそうにこちらを見た。

「I don’t know Wordsworth’s poems, but I can recite one poetry… Hiroko, do you know the one that goes “ Stop all the clock, Cut off the telephone”?」

わたしもこの詩ならわかった。イギリスの高校で習う詩の一つだ。愛する人の詩を嘆く現代詩。なぜかイギリスのテレビ番組で取り上げられて以降、しばらくの間マスメディアで耳にすることの多かった詩だ。
 
Stop all the clocks, cut off the telephone,
Prevent the dog from barking with a juicy bone,
Silence the pianos and with muffled drum
Bring out the coffin, let the mourners come.

Let aeroplanes circle moaning overhead
Scribbling on the sky the message 'He is Dead'.
Put crepe bows round the white necks of the public doves,
Let the traffic policemen wear black cotton gloves.

He was my North, my South, my East and West,
My working week and my Sunday rest,
My noon, my midnight, my talk, my song;
I thought that love would last forever: I was wrong.

The stars are not wanted now; put out every one,
Pack up the moon and dismantle the sun,
Pour away the ocean and sweep up the wood;
For nothing now can ever come to any good.
Funeral Blues by W H Auden - Famous poems, famous poets. - All Poetry
 
咲はその詩をほぼすべて一人で暗唱した。最後の二行ほどを忘れていたようだったが、教授もこの詩をご存じだったようで、咲と一緒に暗唱をした。

授業が終わって廊下に出ると、入学式に出会ったイギリスに在住経験のある女の子達二人と会った。咲はこの二人と仲良くしている様だ。

二人の浮かない顔に何があったのか尋ねてみると、2ndクラスでも詩の暗唱をすることになっていて、そのうちの一人はワーズワースの「水仙」を暗唱しなければならなかったと言う。

「もう勉強してきて知ってることばかりやらされるのよ。教授がこっちを見ていてまずい、と思った時には遅かった。ワーズワースなんて何回も読んでもう飽きているのに・・・そっちは何の詩をやったの?」

「Funeral bluesだよ。 Stop all the clock, Cut off the telephone、ってやつ」

「いいな~!!新しい事出来て!そっちが羨ましいよ!」

翌週の英会話の授業で、私たちはFuneral Bluesの詩をプリントで渡され、一行一行交代で全員が詩を読み上げた。

一人一人が全体を一回ずつ読むのではなく、一人一行ずつ。おかしな読み方だったが、教授は珍しく全員に読ませようという気になったらしい。咲は昨日詩を暗唱したので、今日は黙って聞いている様に言われた

授業が終わって廊下に出ると、咲が丸めた紙を持っていた。何かと聞くと、2nd クラス子と詩を交換したそうだ。

「さっき話してたら、私達二回分の授業を無駄にしちゃったんだよね。

一回目は自分の知ってる詩を暗唱しただけ。二回目は読むことも許されないままただ聞いているだけ。

それだったらお互い詩を交換したほうが良いよね、ってことになったの。

嬉しいな、ワーズワースの「水仙」、ちゃんと読んだことが無いんだけど随分長いんだね」と微笑みながら紙を広げていた。

一回のクラスに参加できなかっただけでここまでやるなんて、咲は本当に真面目なんだとつくづく思った。

後期最後の授業が来て、私たちはプリントを渡され、英会話のクラスの評価をするように言われた。生徒が先生を評価する。授業に積極的に参加していなかった私は、ほぼ全部に「Fair」と書くだけだった。

咲は「ぼろくそになるまで教授へのクレームを書いちゃった。This class is RUBBISH !」と言っていた。

*****************

留学を思い立った私は、すぐに行動に移した。今まで留学を経験した先輩達を紹介してもらって話を聞き、授業はどう対策をしていけば良いか、アメリカの治安について詳しい話を聞くことが出来た。

一番印象に残ったのが、大方の先輩が言っていた鷲知大学の英会話のレベルの低さだった。

「杉浦さん、うちの大学の英語学科の英会話レベルは低いよ。英文学科の方がはるかに優れているね。あっちの英会話のレッスンでは全員が問答無用で発言しなければいけないから、留学先でも英文学科の人達の方が会話にはとても優れていたよ。

英語学科だと、海外に居た生徒に話をさせてあとの皆はただ聞いているだけでしょう?それじゃ何の意味も無い。私は外部の語学学校に行って、半年だったけど週二回レッスンをしてもらったよ。留学対策をしている英会話学校もあるから、もし知りたかったら言ってね。紹介するから」

それを聞いて、私は即英会話学校を紹介してもらった。MOBAというその学校は「どの駅の前にもある通学しやすい英会話学校」というのが売りで、一部の学校では大学や大学院の留学対策コースを設けていた。

親も大学の英語の授業に心配していた所だったので、私が英会話学校に行くことはすぐに賛成してくれた。留学対策コースは白金台校にあり、うちからも車ですぐ行ける場所にあった。私は親と一緒に英会話学校の説明を聞きに行き、木曜と土曜の二回90分のレッスンを受けることになった。

レッスンは大学の留学試験対策から始まり、実際に留学に行くことになった場合の飛行機での会話や入国管理を通るときの会話、学生寮でアメリカ人と生活する時の様々なシーンでの会話から始まり、選考したい言語学の専門用語の読み方や使い方、レクチャーを受ける時のポイント、試験対策やレポートの書き方まで懇切丁寧に教えてくれる。

レッスンは5人の先生が見てくれた。毎週先生が交代し、ある日はアメリカ東部の出身の先生、ある日は西部出身の先生、その他北部や南部の出身の先生もいた。

「アメリカは広い国なので、地域ごとに訛りがあるんですよ。杉浦さんが希望している大学は全米から学生が集まっているから、色々な訛りに触れておいた方が良いですね」そう言いながら、各地の訛りの参考になるアメリカ映画のリストまで渡してくれる先生もいた。

「わが校の生徒さんは、アメリカの五大大学の大学院などに留学されて、その後もアメリカの一流企業で活躍するなど実績のある学生さんが大勢います。杉浦さんもぜひ頑張って、まずは大学の交換留学の面接を突破しましょうね。こちらも全力でサポートします」

そう言いながら、学校が作っているオリジナルの英会話のCDを手渡してくれた。

大学の専門の授業は当分力を入れない事にした。授業中発言しなくても,レポートを出して毎回出席していればA判定の成績で通過できると、大学の先輩から教わったからだ。

「先生たちも高齢だからあまり真剣に成績を付けないのよ。毎回出席して、レポートさえきちんと出していれば何の問題も無くAの成績がもらえるからね」

どのみち、専門の授業は3rdクラスの稲葉さんが教授と話して終わる。それは文学の本について書かれたことかもしれないし、詩の内容かもしれないし、そこは分からなくてもいい。

たまに教授からあてられはするけれども、発言しなくても稲葉さんが話を持って行ってしまう。

私が目下必要としているのはイギリスのお上品な英語ではなく、アメリカで必要な生の英語だ。講義室で話されている架空の英語ではない。

目指すものをしっかりつかみ取ろうと、私は語学学校から出される宿題に必死になって取り組んだ。交換留学の試験まであと一年。しっかりした結果を出す。そう決めた私はアメリカと名前が付くものであれば何でも飛びつき、吸収していった。

同級生も同じ考えの人が多く居て、英文学で質問や発言をするのを諦めた人も出てきた。

「なんだかんだ言って、最終的には話が稲葉さんの所に行ってしまう」

「会話のレッスンなのに話す機会を作ってもらえない」

「質問したくても英語が出てこない」

「授業で何を話しているのか分からない」

「宿題が何なのか分からない」

「文学なんて言っているけれど本当に読む価値のある本を読んでいるのか」

「来年の交換留学試験のためにアメリカの英語に慣れたいのに、今の大学の必修のクラスでは無理。スコットランド訛りのイギリス英語なんて実生活では使えない」

「これまでアメリカ式の英語を勉強してきた私たちはどうなるんだ」

このように嘆く同級生たちに、私はMOBAを勧めてみた。

何人かは飛びつくようにして白金台校に通う様になった。

一年間アメリカで生活をして大学の授業に出る。

その目的を果たすためなら私たちは対策を練らなければいけない。

最短距離で最大限の結果を出せるもの。その結論が英会話学校だった。

必修の英会話のクラスでは、後期の最後にチャーリーが「桜の木」の詩を出してきて暗唱するように言った。

智恵が「この詩はもう英文学でやった」と余計な事を言ったから、チャーリーは次の週にロバート・バーンズの「我が恋人は紅き薔薇」という詩を持ってきた。

こんなに役に立たない実践的で無いものを教えて何になるんだろう。短い詩だったからまだましだけれど、現代の英語ですらない。しかもスコットランドの訛りの英語だともいう。こんなカビの生えた英語を学ぶ必要が何処にあるのか。私はちらっとプリントを見るだけにした。
 
O my Luve’s like a red, red rose
That’s newly sprung in June:
O my Luve’s like the melodie
That’s sweetly play’d in tune.

As fair art thou, my bonnie lass,
So deep in luve am I:
And I will luve thee still, my dear,
Till a’ the seas gang dry:

Till a’ the seas gang dry, my dear,
And the rocks melt wi’ the sun;
I will luve thee still, my dear,
While the sands o’ life shall run.

And fare thee weel, my only Luve
And fare thee weel, a while!
And I will come again, my Luve,
Tho’ it were ten thousand mile.
 
A Red, Red Rose - Wikipedia

チャーリーはその詩を一読し、長々と話し始めた。
智恵が後で教えてくれたのは以下のような内容だった。

「世界には様々な訛りの英語があるんですよ。大学を出て社会に出たら、皆さんは世界各国の人々の訛りのある英語に出会うかもしれません。それがこのロバート・バーンズの様なスコットランドの人かもしれないし、もしかしたらフィリピンや香港やインド、ドイツやギリシャ、ブラジルやメキシコの人かもしれません。心を広く持って、様々な英語に触れてください。もちろん僕の出身のアメリカの英語を学んでくれれば嬉しいに越したことはありませんが」

やっぱりそうか。目指すところをもう決めていた私は、アメリカの四つの訛りに的を絞って長い春休みを使って英会話学校の教材に取り組んだ。

******************

時間はあっという間に過ぎ、私たちは二年生に進学した。専門教科のクラスメイトは一年の時と顔ぶれが変わらず持ち上がりとなった。

二年生になっても英会話のクラスで発言するのは咲が大半だった。真面目過ぎる咲は、教授から出されるトピックにすぐ飛びつき、自分の考えを言ってしまう。
二年生になると咲の発言の内容を分かる様になってきた人もいたが、ディスカッションにはならなかった。前期の終わり頃、英会話クラスの一人がブチ切れたように怒鳴った。
 
「おめーの言ってんのは違げーよ!そんな筋があるかよ!他の見方があるっての知らねーだろ!!!」

クラスが一瞬静かになった。咲は日本語で発言した同級生に,努めて冷静に答えた。
 
「Excuse me, but you are a bloody coward! If you have opinion, why don’t you speak up in English ?」
「ぶ・・・わど?  俺が何だって・・・?」
「Coward! Why don’t you speak up !?」
「ピーク?! 何それ?ピーク何とか・・・?」
「スピークアップ!」
「す,スピーク アップ?何それ?」
 
今度は咲の方がが切れて教授に八つ当たりをした。
 
「Oh, Ritchie…!!!! 」

教授はなだめるように手を上げて咲を制した。
 
授業の後、咲は教授のいる黒板の前まで行って問いただした。
 
「What are they all doing at this class ? There is no proper discussion!」

「I know, I know !」

「If they have opinion, why don’t they speak up, then!」

「Saki, it doesn’t work in that way.」

「But this is English conversation class, isn't it ? He didn’t know what “speak up” means”!

No wonder no one spoke up during our first year, because they don’t fucking know the meaning of “speak up”! They must have heard the phrase millions of times last year, but they can’t speak up because they don’t fucking know what’s been said!」
 
咲は教授から少し離れて小さな声で教授に尋ねた。
 
「You're going to let them pass this class, aren't you?」

教授は下を向いたまま無言だった。

「Without speaking in sentence during classes?」

教授はまだ無言のままだった。

「I bet they do pass with A score. Have you received huge donation from their parents? 」
 
教授はこれにも無言だった。
 
「This is an easy class, isn’t it? All you have to do is sit there quietly, and pass the class with brilliant score.

The Japanese proverb is right. Silence is gold. Speaking is silver.」
 
そう言うと咲は我慢の限界に達したのか,教室から速足で出て行ってしまった。
私はかける言葉が無かった。

***************

2年先になると、英会話のクラスは3rdと4thの二組が一緒になって行われる事になった。チャーリー先生のクラスから離れるのは正直辛かった。私達にしっかり向き合ってくれた先生。これから大人数のクラスで会話をするとなると、どうなるのか。そこはかと無い不安がこみ上げて来た。

一年生の英文学の時と同じく、喋るのは稲葉さんとカナダに居た文江ちゃん、そしてうちのクラスの智恵の三人だった。それなのに稲葉さんが喋るのが圧倒的に多い。新し担任になったリッチー先生のえこひいきの様だった。

稲葉さんが一旦意見を言うと、誰もそれに対して反論出来ない。様々な意見があることを先生に分からせたかったが、言葉にならない。

もどかしい思いをしていたある日、稲葉さんがいつもの調子で自分の意見を言い出した。「また・・・」と誰もが思ったとき、普段は大人しい小林君が日本語で食ってかかった。色々な意見があることを分かっていない、と。

すると稲葉さんは逆ギレしたのか、小林君に食ってかかってきた。

相変わらず分かりにくい英語で話すので、彼女の真意が読み取れない。

小林君が稲葉さんの言っていることが分からないでいると、稲葉さんは「スピークアップ」という表現を使った。小林君が分からないでいると、稲葉さんは先生にまで食ってかかりはじめた。

授業が終わって、私達はカフェテリアで「スピークアップ」の意味を辞書で調べてみた。

Speak up 「大声で話す、腹蔵なく(率直に)話す」という意味だった。

真純が呆れたように言った。

「普通、高等教育を受けた人がこんな表現使うの?授業中に意見を言って欲しかったらstate your opinion位言えないのかしら?!」

「分かる。うちの高校でも英語の授業ではstate your opinionだったよ」

「やっぱり稲葉さんの英語は間違ってるのよ。あんなの聞かなくて良いよ」

「だってあの人、帰国子女でしょ?たかだか「子女」、子供が喋っているからあんな変な英語が出てくるのよ」

「私達純ジャパはさ、やっぱり高等教育を日本できちんと受けて来ているから、洗練された言葉じゃないと分からないのよね」

「そうそう、子供レベルの英語。気にするの止めよう」

*****************

二年の終わりに、3rdクラスと4thクラスの半分以上が交換留学の試験に合格し、皆大学の外で行っている英会話教室の授業に力を入れるようになった。英会話教室ではアメリカ人の先生から教わることが出来、「大学の授業よりもよっぽどまし」と嬉しそうに言っていた。

そして三年の二学期には、交換留学組が満を期してアメリカを目指して旅立っていった。

一年が経つのは早い。冬が過ぎて後期の授業の試験が終わると、私は三年に進級した。

三年の授業ともなると専門の授業が忙しくなり、私は専攻している言語学の授業で時が経つのを忘れるほどに忙殺されていた。ゼミも始まり、卒業論文を書くのも視野に入ってくる。私は、「子供の第二外国語習得」について論文を書こうと、担当の教授と話を始めた。

授業やサークル活動のテニスが充実していたせいか、三年生という時間はあっという間に過ぎていった。

私が言語学研究を専攻し、咲が英語圏研究を専攻していたため専門が違く、私は咲となかなか会えなくなったのが残念だった。

三年になってしばらくしたある日、私は図書館で咲を見つけた。

咲はカードボックスで欲しい本の場所と番号が書かれたカードを探していた。いくつもの引き出しがある木製のカードボックスには何枚ものカードが並べられ、筆者の名前順、そしてその筆者の作品が作品名ごとにABCD順に並んでいる。

「咲!」
「ヒロちゃん!久しぶり!」
「こっちこそ!今どうしてるの?」
「それがね、四年生になったらオーストラリアの大学に行くことになったの」
「え!オーストラリア?!」
「うん。専門のクラスが人数不足で二年の時と三年の時に全部キャンセルになったので、交換留学に行くことにしたの。二年の時もオーストラリアに出て単位を取ろうと思ったのね。でも二年の時に申し込んだときは面接に受からなかったの。今年の試験でやっと合格できたよ。今は交換留学のための勉強をしているの。勉強したい分野の基礎をもう一回おさらいしなきゃ」
「そんなに酷い事になってたなんて・・・そう言えば二年生の時にも専門がキャンセルになったって言ってたっけ」
「そう。イギリス経済史とイギリス政治史」
「三年では?」
「インド入門とイギリス社会史とオーストラリア入門」
「五科目もあるじゃない!」
「ほとんどが四単位もらえる授業なのよ。全部取れれば20単位取れたんだけど,二年間の授業が全滅。専門って最低15単位必要じゃない?それが一つも取れていないんだよね」

オーストラリアの大学は交換留学先がアメリカの大学と比べると圧倒的に少なく、2校しかないため交換留学申し込みの倍率はとんでもなく高い倍率になっていると言う。アメリカの大学は50校近くと交換留学制度があり、申し込んで面接を通過すれば行ける確率は少し高い様だが、国が違うと事情も異なってくる。

「出来れば日本でずっと勉強したかったんだけどね。日本語で勉強が出来なくなっちゃうでしょ?もし四年生で行くことになると、学費も余計にかかるから親に迷惑をかけちゃうけど、他の専門の興味の無いクラスに出るのはどうしても納得がいかなくて。全部で15単位を取らなきゃいけないから遊んでる暇がないかも」

咲は屈託なく笑ったが、15単位とは二年間で取る分の単位だ。それを一年間で取るなどは無謀ではないのか。

真面目でかたくなな咲が気の毒になった。

******************

「陽子、真純、優香、里子、絵里奈、加代、麗華、有希、美紀、実花、元気でね!」

クラスメイトが開いてくれた壮行会で、私達4th クラスは大学の近くの居酒屋で乾杯した。お酒は嫌いだったのでウーロン茶での乾杯だった。

「アメリカに行っちゃえば好きな事が出来るよね。これで稲葉さんだけが喋っているクラスともやっと離れられる」

「私たちもやっと本場の大学で勉強できるんだもの。専門の単位はこの前期で取り終わる予定だし、あとは好きな事だけをアメリカでやるだけだよね」

「陽子の行く大学ってミネソタにあるんだっけ。冬休みに一緒に旅行しない?私ミネソタまで行って見たかったんだ」カリフォルニアにあるUCAAに留学することになった瑠美が言う。

「そうだよ、クリスマスが終わったら皆でどこかで落ち合って、旅行しない?」真純も言う。

「私ニューヨークに行きたい!アメリカと言ったらミュージカルよね」

「ナッツベリーファームとかディズニーランドもいいなあ。だれかマイアミの近くに留学する人、知ってる?」

「私は冬か春にメキシコに遊びに行きたいな。だれか一緒に行かない?」

楽しみが山盛りに増えていく。勉強だけじゃなくて遊びも重要。何よりもアメリカの生活がやっと出来るんだと思うと心が躍り出したくなるほど私たちは興奮していた。

7月の末が来て前期の授業が終わると、私は祖父母と両親に見守られて成田空港からアメリカを目指して旅経った。夏休みを利用した二か月の語学研修に出るためだ。8月から9月の末まである語学研修の期間は、大学内の学生寮に泊まることになっていた。アメリカ人が普段使っている寮に住める。それだけでも嬉しかった。

飛行機を乗り継いで最寄りのウィノナ・モンゴメリー空港に着いたのは7月28日。空港からの道のりは地平線の遙かかなたまで続く麦畑の中を通る。アメリカの映画でよく見たアメリカらしい畑の光景。時々見かける鮮やかな赤や青のサイロや小さな風車などが彩を添えている。

大学の正面玄関でバスが停まり、私は大きなスーツケースを転がしながら地図にある学生寮を目指して歩いた。八月の最中のミネソタは暑い。汗を垂らしながらついた学生寮で名前を告げると、部屋番号を書いた紙と鍵を渡された。

「Xxx xxx xxxx xxxxxxxx. Xxxx xx xxx xxxxx xxx xxxx xx xxxxx. Xxx xxxxxxx ?」

中西部の訛りには慣れていたはずなのに言われていることが全く分からない。とにかく笑顔を作って受付から離れると、43番の部屋を探した。

想像していたのとたがわず、アメリカの鄙びた部屋が顔を出した。落ち着いた色のカーテンに揃いのベッドカバーがかかったコンパクトなベッド。デスクと本棚。洗面台と鏡。どっしりとした木製のクローゼット。これが部屋にあるすべての物だった。

バスとトイレとキッチンは共有だった。のどが渇いた私は廊下の端にあるキッチンまで行って見た。ドアを開けると、途端に日本語が飛び込んできた。広いキッチンに20名くらいのアジア人の学生と思われる人たちがいる。

「あら?日本人の方?」

「はい」

「いらっしゃい!今の時期に来るって事はもしかして交換留学の人?」

「そうです」

「私達、私費で留学に来てるの。こちらで進学した人もいるんだけど、大半が去年の春に来た人よ。お茶でもどう?どうぞどうぞ,こちらへ」

皆笑顔で迎えてくれた。コーヒーマシーンから備え付けのマグにコーヒーを入れてもらい、一息つくと、周囲の人が話しかけてきた。

「どこの学校から来たの?」
「専攻は何?」
「学生寮はどこになるの?」
「出身はどこ?」
「アメリカは初めて?」

質問には切りが無く、私たちは時に大笑いをしながらブレイクタイムを過ごした。

夕方になり、一人が言った。

「ねえ,陽子ちゃんのウェルカムやらない?」
「そうね、折角の土曜日だし、ピザ取ろうよ,ピザ」

ピザ?ピザって、日本のイタリアンで食べられるピザ?
宅配でも食べられるピザ?

アメリカにもピザがあるの?日本やイタリアだけではないの?

「アメリカのピザは凄いよ!見たらびっくりするよ」

30分後に届いたピザは巨大なピザだった。50センチくらいはありそうな巨大なマルゲリータ。チーズもトマトソースもバジルもたっぷりかかり、ピザの縁にもチーズが入っている。総勢25人でのピザパーティーになった。

ビールやコーラのボトルが開けられる。こんなにまで私の到着を歓迎してくれる人に会えるとは思ってもいなかった。

2か月の語学研修は地獄だった。とにかく先生の言っていることが分からない。分かったとしても質問に答えられない。発言を求められても何を言えば良いのかが分からない。宿題で出されるレポートはAスコアの良い評価を頂けたが、スピーキングとリスニングはA~Dの評価のうちD評価を付けられた。

悔しさは本番の授業で頑張ろう。10月の頭に始まった言語学の授業に私は勇んで出席した。

専門の授業は語学研修よりも簡単に思えた。英会話学校で約二年間鍛えた結果が出たのか、言語学の専門用語はすらすらと分かる。先生は生まれて初めて見る黒人の先生だった。アメリカに黒人がいるなんて信じられない。アフリカから来たのだろうか。

しかし日本の高校と同じレクチャースタイルの講義では質問する時間も与えられず、生徒たちは授業が終わるとさっさと部屋を後にしてしまう。一週間に二回ある講義では友達が作れそうになかった。

同時に、日本へのホームシックに襲われた。日本語は夏休みの間に出来た友達と話すことで解決できたが、日本食が恋しい。アメリカのドライな人間関係も馴染むのに時間がかかりそうだった。

落ち込む日々を送っていたそんな日、私はキッチンでいきなり話しかけられた。

一瞬稲葉さんが現れたのかと思った。喋り方が稲葉さんをほうふつとさせる。

ゆっくりと話をしてもらった所、その女の子はイギリスから来た交換留学生だった。エミリーと言う名前のその子はイギリス中部のバーミンガム出身で、「少し訛りがあるの」と恥ずかしそうに言っていた。

同じ交換留学と言う立場で意気投合し、エミリーの知り合いの子達をどんどん紹介してもらった。イギリスからの留学生が大半で、他にもオーストラリアやニュージーランドからの留学生もいる。白人だけではなくインド系やアフリカ系など人種も様々。イギリスやオーストラリアにこんなに豊かな人種がいるとは思ってもみなかった。ゆっくり話してもらった限りでは、多くはこちらで修士に進むか、就職しようと思っている様だ。

週二回の授業は順調に進み、宿題のレポートにも十分に時間がかけられる。冬休みにはエミリーたちと早めの「イギリス式とアメリカ式を合わせた」クリスマスパーティーを開いた。誰かが買ってきたスタッフィングたっぷりの七面鳥のローストとポートワイン、誰かがこれもどこかで買ってきたミンスパイという干しブドウのお菓子に、二人で引っ張ってパンという音をさせるクラッカー。ビールやワインにソフトドリンクと飲み物も並び、私は周囲の大騒ぎに引き込まれていった。

冬休みは鷲知大学の皆とミネソタの州都のミネアポリスを見て回り、フロリダにあるディズニーランドに行き、そして大半の友人が留学しているカリフォルニアに行って暖かい西海岸のお正月を楽しんだ。

後期の授業も順調に進んだ。すでに日本で習ってきている内容と重複しているのが気になったが、レポートも時間をかけて書ける他、外国人生徒用のレポート相談室のサポートも受けられ、文法のミスやスペリングのミス、英語の言い回しのミスはすべて事前にチェックしてもらえる。お蔭で安心して自信を持ってレポートを提出できた。

春休みには、留学先に来ていた私費留学の人達が日本に帰る前に一緒に旅行をした。ニューヨーク五番街にある五つ星ホテルのスイートルームを借りて毎日シャンパンの飲み放題。音源は無かったが皆で枕投げやカラオケを楽しみ、私もお酒の味を覚え、二日間の滞在を飲みに買い物に観劇にと、ニューヨークを遊び倒した。

イースター休暇にはエミリーたちとパンケーキを焼いた。エミリーの故郷ではクレープの様な薄いパンケーキを焼いて、それをフライパンで何回ひっくり返せるか競う遊びをすると言う。誰かがどこかで見つけてきた大きなチョコレートのイースターエッグとイースターバニーを食べてパンケーキにレモンジュースとお砂糖をかけ、ミルクティーで一息つく時間は至福の時だった。

イースターの最後の日曜はカリフォルニアにいる同窓生ともう一度合流し、レンタカーを借りてメキシコ国境まで車を走らせた。チリビーンズを効かせたタコスやハラペーニョを使ったブリットー。アメリカとメキシコのミックスの食事を堪能した後は海辺でゆっくり日光浴をして、どこまでも続く太平洋の水平線を眺めて過ごした。

*****************

年が明け、数か月するともうアメリカに行っていた旧友たちが学校に舞い戻って来た。どの子も会った途端におもいっきりハグをしてくる。頬にキスする子までいる。

久し振りに何人もの友達と会った私は、彼女たちの話に耳を傾けた。

「ねえ,ヒロちゃん、知ってた?」
 
例のポニーテールの子は勢い込んで私に話し始めた。

「うん?何?」

「アメリカって、黒人がいるのよ!知らなかったでしょう?白人以外の人種がアメリカにいるなんて知らなかったでしょう?私てっきりアフリカから来た人だと思ってたんだけど、何代遡ってもアメリカ人なんですって!」

イギリスが奴隷貿易でアフリカからアメリカに黒人の奴隷を連れて行き、そのまま彼らがアメリカで過ごしているのは歴史で習った事もあるし、ハリウッド映画には黒人俳優も沢山出ている。それなのにこんな発言が出るのは意外だった。

「それにね、向こうにはピザもドーナツもあるのよ。あたし、ビザはてっきり日本とイタリアにしかないんだと思ってたんだけど、向こうでも普通にピザが買えるの!信じられないでしょう??ドーナツなんて、中にジャムが入っているんだよ,信じられる?甘かった~!」

他の子達もどんどん話に入ってくる。真純ちゃんが続いて話し始めた。

「クリスマスにはブロードウェーに行ってミュージカル三昧だったの!やっぱり本場の物を見ておかなきゃ駄目よね。日本にはあんな最先端のエンターテイメントなんて無いでしょ?」

「アメリカ国内の移動は、長距離は全部国内線のフライトを使うのよ。日本は国内線が不便でしょう?それに比べるとアメリカの航空システムの方が日本なんかよりも進んでるわあ」

「日本はアメリカよりもすべてが遅れているのよ。私がいた学生寮では電子レンジに皿洗い機、電気湯沸かし器が当たり前の様についていたよ。日本の台所で皿洗い機が置いてある所なんてないでしょ?アメリカ人は合理的に時間を使うから、皿洗いなんて家事に時間を費やさないの」

絵里奈ちゃんがそれに続く。

「アメリカで、日本食を作れとか日本の歌を歌えとか言われたのよ。私、アメリカに一年間どっぷりつかるつもりでいたから、そんなの断っちゃった。いやよね,いきなり日本食作れとか言われても。私、日本に居ても普段から家では洋食しか食べないし、それに炊飯器やお刺身すら売ってないのに、何が作れるって言うのよ」

「私は日本のポップスを唄ったけど全然受けなかったよ・・・何が悪かったんだろう?」

「アメリカだとやっぱりフジヤマゲイシャだからねえ・・・歌舞伎でもやれって言うのかしら?いやよね、普段から見ても聞いてもいない様な事をやれって言うの」

「ま、私達もアメリカで大学に通えたし、ヒロちゃん、これで私達も帰国子女のあなたと一緒よ」ポニーテールの子がやれやれと言った表情で言う。

それを聞きながら、私は咲のことを思った。

咲は専門の授業が二年時も三年時も全てキャンセルになり、四年生になっても専門の授業は一単位も取れていない。結局、行くつもりも無かった海外留学に出て単位を取ってくることになっている。頑張り屋の咲なら、何らかの結果を残して帰ってくるだろうが、一年で二年分の単位を取るなんて現地の学生ですらやっていないのではないだろうか。

「卒業が一年遅くなっちゃうけど、しょうがないよね。授業がキャンセルになっちゃ。留学先の住所が分かったら手紙書くよ」

そう言って四年生の九月に彼女は留学先のオーストラリアに旅立っていった。

 ******************

アメリカから帰って来た交換留学生達とは、最終学年後期の英語の授業でまた一緒になった。

咲の居ないクラスでは、相変わらず誰も喋らない状態が続いていた。

「先生に目を付けられたら咲ちゃんと同じことになるでしょう?発言しなくても単位は貰えるんだから無駄な事はしないの。私達アメリカ組は合理的なんだから」

それが彼女たちの口癖だった。

喋らなければ単位がもらえなかった咲。

アメリカで英語を磨いてきたにも関わらず授業で発言せず、レポートを提出して最低限の労力で単位を取っていった彼女たち。

要領がいいんだな。咲の不器用さがふと思い出された。

不器用にも初回の授業で発言してしまって目を付けられ、教授たちの怠慢な授業に翻弄された咲。

世渡りは最低限の労力で。これが私が大学の同級生から学んだ事だった。

英会話の授業では口をつぐみ、年に二回あるレポートを提出するだけで単位を貰う。英文学もただ静かに席に座って、やはり年に二回のレポート提出でスマートに単位を取る。年老いた教授達は出席さえすればA判定の上々の成績をくれる。

周りからは「違う人」と思われず、言葉も周囲と合わせて。
そんなことを考えながら、私は教室の中で澄まして座っている同級生たちを見渡した。アメリカで彼女たちがどのような一年を過ごしてきたかは、楽しい部分だけは分かった。

しかし、それ以外はどうだったんだろう。

深く考えるのはやめ、私も最終学年での授業でも発言するのははやめた。 

この大学ではこれが当たり前。
何事もスマートに。

咲の様に目立てば理不尽な事で他の生徒から怒鳴られ、教授からは目を付けられて発言をしなければ単位が貰えなくなる。

それならば、学生時代は出ないに杭になるに越したことは無い。

毎回の授業を復習し、自分で図書館で教科書を見つけてきては言語学や教育学のことを自習していけば、誰にも気が付かれずに英語という言葉と真正面から対峙できる。

飛び出すぎても誰も何も言わない環境で。

卒論を書きながら、もう一度自分の研究してきた「子供の第二外国語習得」について考え直してみた。自分や私の妹がイギリスでどのように言語を身に着け、それが第一言語にどのように影響を及ぼしたか。そして第二言語をどのように学ぶのか。

教職を目指していた私はこの課題にもう少し深く考察してみたくなった。

大学院に行くのも悪くないかもしれない。できれば移民が多い地域の大学でEFL(English as Foreign Language)の研究が盛んな大学。そこで子供の外国語学習を研究すれば、現場の教師になったときに効果的な教育方法を考えられるかもしれない。

大勢のクラスメイトや咲の留学に、私も図らずも影響を受けた様だ。

 社会人になってどのタイミングで留学に行けるか分からない。両親に相談しなければいけないが、大学を卒業する前に大学院の入試を受けるかもしれない。

そう思いながら、私は教育実習の準備をしながら、まだ行くとも分からないアメリカの大学院の資料に目を通し始めた。
 
 


(このお話はフィクションです。実在する団体・個人とは一切関係はありません)
 


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