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曾祖父と原爆ドーム

第二次大戦中、私の曽祖父は広島県産業奨励館、現在の原爆ドームで働いていた。

1945年8月6日の朝、曽祖父はうっかり忘れものをし、一度自宅に戻った。
自宅に戻った頃、原爆が投下され、広島市内は火に包まれたそうだ。

これは「忘れ物事件」として親戚が集まると話に出ることがあった。
しかし、祖父母はあまりいい顔をしなかった。
「あの時の広島は皆原爆の影響を受けているんだから」,と。
決してうちだけじゃないんだよ,と。

曾祖父と曾祖母の家は爆心地から離れてはいたものの、二人とも原爆症で亡くなった。
たしか70代まで生きていたと聞かされた覚えがある。

祖父母の4人の子供のうち、一人は重い原爆症に長年悩まされた。
末の息子は学生動員で市内に居て、どうやら発見されなかったようだ。

筆者が子供の頃に聞いた話なのでうまく理解できていたか定かではないが、広島の原爆で生き残った人は「行き恥じ」を抱えていて、家族以外に原爆の体験を語ることは無かった。

「ひいお爺ちゃん達のことは外で話さないように」とも言われたことがある。

その後、戦争を実体験として知っている人は少なくなっていると聞く様になった。

曾祖父や曾祖母にとって行き恥じだったかもしれない戦後の人生ではあるが、曽祖父の職場だった建物を見た時、ここには曽祖父の同僚達が眠っていると感じた事、そして現在は原爆ドームとして人々が見に来るこの建物は戦中人々が仕事をしていた美しい建物であり、日常生活が営まれていたと分かった。

また,旧友と話していて,その方の祖母が偶然にも広島県産業奨励館で働いていたことがあると判明した。

それをもとに書いたのがこの小説だ。

資料が乏しい中書いたものだが、79年前の広島産業奨励館で働いていた人々の日常が少し垣間見られるものになっていると良いな、と思う。

人々の日常生活を奪う原子爆弾。
これが二度と使われることが無いよう、8月7日のあの日を忘れないようにしたいと思う。


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