死とて
どれだけ想いを伝えても終わりには後悔するだろう。
どれだけ幸せな時間を育もうと終わりには後悔するだろう。
この人生に後悔はないと悟った時、精神的な死を迎えてしまうのなら肉体的な死よりもいくらか早く精神は死ぬ事になる。
まだ肉体的には生きているのに。
死を受け入れるとはそういう事なのか?
きっと『この人生に後悔はない』と言う言葉は死が目前に迫った時、残された大切な人達へ向けた言葉なのだろう。
後悔ばかり残して死んだ人を見て『可哀想』と貴方は言う。
後悔を残さず死んだ人を見て『良い人生だった』と貴方は手放しで褒め称える。
老人の死に対して『この歳まで良く頑張った』と貴方は言うが、一体何歳まで生きれば貴方は褒めてくれるのだろう?
20歳前で自決したあの子には誰も『頑張った』なんて言ってはくれなかった。
長く生きればそれだけで良いのか?
短くも濃い人生は何故否定されなければいけないのか?
貴方達が言ってる事は理解出来るが、否定するその根本的な理由は未だ濁ったまま。
それでも、私はこの人生を全うするなら最後まで明日に手を伸ばしながら、死にたくないと涙を流しながら死んで行きたい。
最後に後悔してないなんて言わせないで、肉体的な死を迎えるまで抗わせて欲しい。
それが私の中での人間らしい死の美学。
最後は苦しまなくて良いのなら、後悔を残さずいれるのなら、この人生を全うする意味すら見出せなくなるだろう。
一寸先は何が起こるかわからない闇
拭いきれない不安を抱えて苦しみながら、失敗をし後悔をしながら、それでも前に進んでいる。
そんな事が終わりまで続くのだから、全うするまでもなく、自ら終わりを下すという選択はずいぶんと楽な事だろう。
それでも、、、
道を振り返った時に、後悔しかないから今、今日と言う日を素晴らしい日にしようと生きられる。
一日の中で一時でも幸せを感じられればそれがまた明日への活力になると信じたい。
大変な仕事の終わりにあのカフェでゆっくり本を読みながらたった一杯の温かいコーヒーを飲む、そんな小さな幸せで良いのかもしれない。
嫌な事しかなかった今日と言う日は、昨日目を閉じたあの子がなんとしてでも生きたかった日、一時でもいい素晴らしい今日と言う日に接物を。
あのカフェで本を読みながらたった一杯のコーヒーが飲みたくて俺は明日も生きるのだろう。
いつかこの人生を全うする時、あのカフェのコーヒーを、もう一杯飲みたかったと後悔しながら目を閉じたい。