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「応仁の乱」とは何だったのか? ~後編~
前回の記事で「応仁の乱」のきっかけとなったのは、次期将軍をめぐってのい家内争いだと書きましたが、
↓↓↓↓前回の記事
将軍家の争いは、そのまま有力大名同士の争いにも発展していきます。
2.有力大名も加わり東西二分する争いへ
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次期将軍を義尚(よしひさ)とする西軍、義視(よしみ)とする東軍。
それぞれに有力守護大名が加わり、将軍家の世継ぎ問題が大名同士の勢力争いにも発展していきます。
特筆すべきは、畠山(はたけやま)家と斯波(しば)家でしょう。
両家とも将軍家同様、自身の家でもそれぞれ家督争い問題を抱えていました。
将軍家の家督争いに自身の家の家督争いも加わり、相関図のように、身内で敵味方に分かれて争うことになります。
さらに舅と娘婿の関係にあった山名宗全(やまなそうぜん)と細川勝元(ほそかわかつもと)。
婚姻関係で結ばれていますが、なにかと対立することが多かった両者。
ここでも西軍・東軍それぞれの将として見事に対立します。
身内だけに収拾がつかず、足掛け11年にも及ぶ泥沼の争いとなっていきます。
そのうえ足利義視が西軍に寝返り、もはやなんのための争いかも分からなくなっていきます。
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3.勝者なき内乱
一応は義尚が勝つわけですが、応仁の乱で主戦場となった京都。
町は焼け野原となり、壊滅的な被害を受けました。
そして幕府の権威も一層衰え、群雄割拠の戦国時代へと突入していくわけです。
実に勝者なき乱でありました。
国を憂うことより、自分の利害を優先する。
人間とは、権力者とは勝手な生き物ですね。