おばあちゃんのおひなさま
祖母の家族は戦時中、兵庫県の西宮市に住んでいた。
ジブリ作品の「火垂るの墓」をご覧になったことはありますか?
祖母や祖母の妹たちはアニメの舞台に馴染みがあり、それだけに見覚えのある建物や出来事が映像化された同作は泣いて見られないと言っていた。
清太と節子が身を寄せた意地悪なおばさんの家が確か西宮だった。
年配者が昔話ばかりするというのは世の常だが、祖母は特に戦時中のことを何度も何度も繰り返し話していた。多感な年頃に毎日生きるか死ぬか、もし私だとしても忘れたくても忘れられないだろうと思う。
今となれば、もっと聞いておけば良かったと思うのもまた世の常である。今日は、ひな祭りなので、覚えている話の一つを書き残そうと思う。
私が子どもの頃お雛様を出すと必ず「餃子ちゃんいいな~ばあさんのお雛様、空襲で焼けたんよ」と聞かされていた。
戦禍においてひな祭りなどもちろんできなかったが天気が良かったある日、お雛様を庭に広げ虫干しをした。飾ることはできなくてもお雛様を久しぶりに見られて嬉しかっただろう。
しかしあろうことかその日、西宮の街は空襲に見舞われた。よりによってそれまで日の目を見なかったお雛様を外に出した日。
戦争とは庶民のこんな極々ささやかな楽しみ一つ見逃さないほど隅々まで焼き尽くしたのかと思うと言葉もない。
あの日外に出していなければ・・・と悔やんでいたが、西宮の家も焼け戦後、大分県へ移り住んだ一家にとってはもし焼失していなかったとしても持って行くことはできなかっただろうとは祖母が一番分かっていたと思う。
祖母は四姉妹の長女だった。
祖母は結婚し4人の子供と7人の孫、生きているうちにひ孫にも会えたが、妹3人は同年代の女性には珍しく生涯独身を貫き、三姉妹で暮らしていた。
祖母の法事で次女と四女の大叔母が来た時、昔祖母からお雛様の話を聞いたことあるんだよと話をした。
祖母は妹たちとよく電話をしていたが、大人になりその話はしていなかったのか私に話していたと知り「姉ちゃんもやっぱり気にしてたんやなぁ」と二人とも話しながら泣き始めた。もちろん祖母同様2人にとってもお雛様焼失はショックの大きいものだった。
とにかく思い出すだに悔しくて腹が立つからと、大叔母たちはあれ以降、玄関先に飾るような小さな人形や絵なども含め意地でも「お雛様」を手にしなかったそうだ。
それくらい悔しくて腹が立ったと言っていた。ろくに物のない時代を過ごした彼女らにとっての雛人形は、現代以上に意味のあるものだっただろう。祖母は娘も孫娘もいたので、大叔母らに比べれば身近にお雛様はあった。しかしそれはあくまでも娘や我々孫娘のものであって「自分たちのお雛様」はあの時焼けてしまったものだけなんだろうなと思う。
戦後75年が経ち当時少女だった姉妹ももう立派なおばあちゃんだ。四姉妹のうち、長女の祖母と三女は既に亡くなり次女も90歳。
そんなおばあちゃんになっても、悔し涙を流すほどに忘れられないなんて。
ひな祭りの時期になるたび、私はこのことを思い出す。
優しい祖母が少し寂しそうに「餃子ちゃんいいなぁ。」と呟くあの横顔と共に。
おわり