人間関係の難しさ
自分が大人と言われる分類になって分かってきたことは、大人は意外と大人げないということ。そして、必ずしも正しいとは限らないということ。
おじさん同士の喧嘩を見て、私より何十歳も年上のおじさんでも喧嘩をするのか、と思った。が、そもそもなぜ【おじさんは喧嘩しない】と思ったのだろうか。
おじさんだって人間だ、意見の合わない人はいる。
でもあからさまに態度や言動に表すなんて、大人げなくない?大きな声で言い合いをしたり、悪口を言う姿ははたから見てかなり情けない。
子どもの頃、喧嘩をすれば「ごめんね」「いいよ」を大人は促してきていたじゃないか。
子どもにはそう教えてきたのに、何故自分たちは「ごめんね」が言えないのだろうか。(もちろん全おじさんや全大人がそうだとは言わないが。)
喧嘩おじさんは、私の子ども時代それを促した人ではない。しかし、きっとそのおじさんもそう促され、促してきたと思う。
何故おじさんは喧嘩しないと思ったのか。大人(=喧嘩おじさん)は仲直りしろっていうじゃないか、それなのに自分たちは喧嘩するの!?といったところだろうか。するよね、普通に。
まずもって「みんなで仲良く」みたいな精神がそもそもどうかしている。
せいぜい「みんなで折り合いをつけていこう」でいいじゃないか。
嫌いな人、合わない人がいることは悪いことじゃない。しょうがない。
でも、嫌いだから・合わないからと意地悪したり嫌がらせするのは悪い。
子どもの頃、それを考える機会があればよかったのにな~と思う。
全然納得していないのに「ごめんね」と謝り、全然納得していないのに「いいよ」と許すあの【儀式】に何の意味があっただろうか。それより、嫌いな人とも折り合いを付けて行く考え方を学んだ方が先々役に立った気がする。
小学校の時、よく学級会の議題に上る子がいた。泣きじゃくりながら「ごめんね」といって、相手の子も「いいよ」という【儀式】をして会が終わる。
でも、大して間を開けずまた議題に上り、泣きじゃくりながら「ごめんね」と言うのを、小学校6年間ずーーーっと相手を変えながら繰り返していた。その子は変わらなかった。
本人がどう思っていたかは知らないが「ごめんね」をいうあの儀式さえ行えば禊終了、何の薬にもなっていなかったように見えた。
でも、では、あのときどうすればよかったんだろう。
意地悪される子に対して、もう無視しな?と言えばよかった?いや、意地悪する方を排除するわけにはいかない。大人はそんなとき「仲良くしましょう」としか言えない。
海外では、いじめっ子こそ隔離してカウンセリングを受けさせると聞く。いじめを行うなんて精神的に問題があるからと。
私はとても合理的だと思う。
いじめられた方の精神的ストレス緩和が目的ならいざ知らず、結果的に辛い思いをした方が、社会から逃げるように排除されるのはあまりにも理不尽。そもそも、問題を抱えているいじめっ子が変わらなければ意味がない。
いじめっ子は、自分が行ったことを省みることなくその後を過ごしてしまえば、いつも議題に上っていたあの子のようにいつまでも同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。
あの子はずっとそんなだから、いつしか周りからも煙たがられるようになっていた。しかし、今思えばそれではあの子も可哀想だったと思う。
自業自得と言えばそれまでだが、自分の力で変わるのは難しかっただろう。何度も訪れた「変わるチャンス」に手助けする大人が居たら違っただろうなと思う。
ただ、私を含めて大人って子どもの頃思っていたより大人げない。そして、大人だって間違えるし悩む。
どうしたらいいのか、大人だって分かっていない。
でも、友だちの可愛い可愛い子どもちゃん達を見ていると、この子らも、あの理不尽な世界へ飛び込む日が来るのかと思うだけで辛い。
誰もが通る道、と言って済ませたくはない。
でもどうしたらいいのやら。
人間関係、永遠のテーマだな~~~~。
おわり
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