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ローマ帝国♯2

ローマ共和政

説明

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年王政打倒から、紀元前27年帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。

この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。

基本情報

公用語ラテン語古代ギリシア語
首都ローマ
執政官前:509年 - 前508年ルキウス・ユニウス・ブルトゥス
ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス
前27年 - 前27年ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ
面積 紀元前326年[1]:10,000km²
   紀元前200年[1]:360,000km²
   紀元前146年[1]:800,000km²
   紀元前100年 [1]:1,200,000km²
   紀元前50年 [1]:1,950,000km²
変遷王政廃止 紀元前509年
ラティウム戦争 紀元前498年
サムニウム戦争 紀元前343年
イタリア半島部統一 紀元前272年
カルタゴ征服 紀元前146年
内乱の一世紀の開始 紀元前133年
帝政移行 紀元前27年
通貨デナリウスほか

共和政の開始 (今日ここまで)

紀元前509年、第7代の王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和制を敷いたローマだが、問題は山積していた。まず、王に代わった執政官(コンスル)が元老院の意向で決められるようになったこと、またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、若い市民を中心としてタルクィニウスを王位に復する王政復古の企みが起こった。これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、彼自身の息子ティトゥスを含む陰謀への参加者を処刑した。ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市との同盟は、これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、王の追放で当然に同盟は解消され、対立関係となった。

追放されたタルクィニウス王と息子達は王政復古の計画が失敗したことを知ると、同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。市内に住んでいたエトルリア人はローマを去り、国力は低下した。一時期、先王タルクィニウスは市を包囲したが、ローマが敗戦を認めないため、攻め込んでも犠牲の多い割に得るものが少ないと考え去っていった。その後、ローマはエトルリアから学んだ技術を独自に発展させるようになり、徐々にそれを吸収していった。

紀元前4世紀、アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという習慣があった。ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、紀元前390年にローマを襲撃して略奪を働いた(アッリアの戦い)。この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって打開された。

要約

コンスルの仕事も忙しかったし、王を追放したので同盟が崩壊しエトルリアに包囲されるも、敗戦を認めずに粘ったことで、エトルリアは去っていった。エトルリアの技術を吸収したローマは、ガリアと交戦するも、これをうまく打開する。

まとめ

ローマ共和政の国力は、最初はとても弱いものだった。
王政時代の技術や文化を、独自に発展させていった


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