「インクの森」・・・不思議な縁(えにし)を結ぶ,森の言葉。
日々に疲れたあなたに、家族関係に悩むあなたにそっと寄り添うように。
『インクの森』 作 夢乃玉堂
「行ってきますは?」
私の問いかけを背中で無視して、美織は出て行った。
「しょうがない娘ね。まだ怒ってるのかしら」
開けっぱなしになっている玄関を閉めに行き、
前の道路に美織の姿を探したが、いる筈もなかった。
ギイイ、ガチャリと玄関が重い音を立てて閉まった。
「やっぱり、やらせてあげれば良かったかしら・・・」
夕べ、本当につまらないことで母娘喧嘩をした。
原因は分かっている・・・
「受験生は勉強が一番大事でしょ。食器洗いなんかやらなくていいわよ!」
これだ。この一言だ。
勉強をしなさい、と家族から言われるのは、
子供にとって大きなプレッシャーなんですよって、
三者面談で担任の先生に注意されてたじゃないか。
入試対策のサイトでも、絶対やっちゃダメな事だって書いてあったでしょ。
孝彦さんが生きていたら、こんな風に叱られただろうな。
たまには洗い物でもして、勉強の気晴らしをしたいっていう受験生のストレスに、ちゃんと気づいてたのに・・・どうして言っちゃうかなぁ
孝彦さんが亡くなってからは、
ひとりで母親業も父親業もしなければと頑張り続けて来た。
家事も仕事も子育ても絶対に手を抜かない!
そんな気負いが逆に娘に気を遣わせていたのかもしれない。
仕事を言い訳にするつもりはないけど、
私のような女大工は、まだまだ突っ張っていなければいけない。
建築業界は部材の工場生産が進んで、
現場で大工仕事をする女性も珍しくないなった。
それでも男尊女卑の古い体質は残っている。
「女の方ですか? そこそこ重量ありますよ」
って言ってたあの若いクライアントの優しい言葉も、
そんな古い体質に裏打ちされた思いやりだ。もちろん本人には悪意などあろうはずもない。でももう体に染みついているのだろう。
でも、愛想も忘れかけたアラフォーのシングルマザーは、
それを上手く受け流せるほどの余裕はない。
『そうですとも。力ない女で、足手まといになりそうで
悪うございましたね。』
と、社交辞令も返せず無言で突っぱねてしまうのだ。
それが又、自己嫌悪を呼び起こしてどこかへ消えてしまいたくなる。
そんなストレスを抱えて帰った時は
いつも洗い物をすることで発散していた。
温かなお湯に手を突っ込み、
スポンジの泡で綺麗になっていくお皿を見つめていると、
自分の心の垢も洗い流されるようで、気持ちをリセットできる。
それを・・・発散する機会になるはずの洗い物を・・・
美織に先にやられてしまった。
何だか大切なものを奪われた気分になってしまったのだ。
なんて馬鹿な私。
「ありがとう」で良いではないか。それを!
「何のためにお母さんが頑張ってると思ってるの、
あなたに時間を作ってあげるためでしょう」
・・・畜生!
恩着せがましいったらありゃしない。
そんな親、私だって大嫌いだ!
ああああああ。嫌だ嫌だ。思い出しても嫌になる。
使い古したソファーの上の、くたびれたクッションに、
私は全身で倒れ込んだ。
その拍子に、テーブルの上から
何か黒い棒のようなものが落ち、
ソファーの下に転がり込んだのが分かったがそのままにした。
怠惰だな。横着で自堕落で未熟な母。
このまま仕事もサボってしまったら
どうなるんだろう。
失業して、学費も受験料も払えなくなった、
なんて言ったら美織はどんな顔するだろう。
奨学金を借りると言うだろうか。
だけど、卒業と引き換えに高額の負債を背負わせるような事は
娘にさせたくない。
その為に、男に交じって汗水流して働いて、
家事までこなしてきたのだから。
それなのに、あの子ったら・・・
ああ。まただ! 美織が悪いわけではないのに、悪い母だ~
私の心に浮かんだ孝彦さんの笑顔が、
少しだけ頑張れよと囁いた。
『ソファーの下に転がったものは
忘れちゃう前に拾っておいた方が良いよ・・・』
それでもまだ面倒くさいが半分以上残っていた私は、
寝ころんだままの姿勢を崩さず、
腕だけを伸ばしてソファーの下をまさぐった。
短いじゅうたんの毛の上に
つるりとした硬く冷たいものが一つあった。
摘まみ上げると、それは万年筆だった。
孝彦さんが、ワープロ全盛の時代になっても、
日記を書くために使っていた
黒くて太いビンテージ物。
そもそもこれは、父のお気に入りだった。
胸ポケットに刺している父の姿がかっこよく思えて
入学式や卒業式になると真似をして写真に収まった。
万年筆を指すのが大人の証のように思っていたのだ。
可愛かったな私も。
結婚する時、母が孝彦さんに渡してくれたんだった。
珍しい緑色のインクが入っていた。
あの時私、
「緑じゃ、仕事の書類に使いづらいじゃん」
なんて、母の気持ちも考えずに恥ずかしい事言っちゃったんだなぁ。
でも孝彦さんは、
「緑のインクで書くと、どんな事柄も暖かで平和な出来事に思えますよ。
悪口だって心地よく感じるくらいです」
って、笑って答えてた。
孝彦さんが亡くなってから一度も見たことなかったけど、今までどこにあったんだろう。
万年筆を眺めていると、なんだか甘えたい気分になり、
私は背中を丸めて寝返りを打った。
すると透明なテーブルトップに乗せられた雑誌の下に、
白い紙きれが挟まっているのが見えた。
体を起こす理由を見つけた私は、
ようやくソファーに座りなおし、その紙きれを抜き取った。
手のひらほどの大きさの紙に
カタカナで同じ言葉が何度も書かかれていた。
バカバカー
その横にも
バカバカバカー
上にも下にも
バカバカバカバカー
縦横無尽に
バカバカバカバカー
バカが重なって木の枝のようになり、
さらに重なって、緑のインクで森ができていた。
「ふふふ。ほんとうだ。孝彦さんの言ってた通りね。
緑のインクで書けば、どんな悪口も気持ちよく読めるわ」
インクの森を眺めているうちに、
森の中にたった一行違う言葉があるのに気がついた。
隅っこの方に残った僅かなスペースに最後に書いたひとこと。
私は、よく読めるように紙きれを右に左に回してみた。
それはとても短い、だけどひときわ輝いている一行だった。
『ママ。ごめんなさい』
一気に目頭が熱くなった。
そして手にした万年筆が急に温かく思えてきた。
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