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「熊楠謝る」・・・豪放な天才にも弱点はあった。
『熊楠謝る』
明治から昭和にかけて異端の博物学者と称された南方熊楠。
熊楠は、類まれなる記憶力と行動力を持ち、博物学、民俗学、人類学、考古学、生物から宗教に至るまで豊富な学識を持つ天才だった。
欧米に渡って大英博物館でも研究を進め、多くの論文を残したが
生涯在野で研究することを選び、生まれ故郷である和歌山県の山林をフィールドとして活躍した。
「日本人の心には、森羅万象に対する信奉が深く刻まれている。
土着信仰の神がおられる森が、人間に必要なものを教えてくれるのだ」
熊楠はそう言って山に入って研究と観察を続け、何日も帰って来ないことが多かった。
だが、そんな博物学者を他人が理解することは難しかった。
ある日、熊楠が山から帰ると、女房の松江の姿が無く、
実家へ帰るという書置きだけが残されていた。
「しもた~!」
熊楠は、山から下りたそのままの恰好で
女房の実家に向かった。
「松江~。出てきてくれ~」
熊楠が門の外からいくら叫んでも、松江が顔を見せることは無く、
実家の門は固く閉じられたままであった。
欧米から称賛された世界的な博物学者は、
門の前で情けない声を上げた。
「俺が悪かった~。頼むから帰ってきてくれ~」
家の中では、松江と母親が
熊楠の声を聴きながら煎餅を食べていた。
「松江。出ていかんでええんか?」
「いいわよ。あの人は私のことなんか、
弁当作りの飯炊き女程度にしか思ってないのよ」
松江の不満も当然だった。
熊楠は、時間があれば森へ出かけ、
怪しげなキノコや粘菌の類を持ち帰るため、
家のいたるところに奇妙な植物の標本が転がっていた。
その上熊楠は、多汗症のくせに風呂にはあまり入らず、
もちろん一度森に出かけると、服など着替えないから、
熊楠の体からは常に、鼻がゆがみそうな匂いが漂っていた。
「ちょっと困らせたくらいの方が薬になって良いのよ」
「そうだねぇ~」
と、母娘が熊楠の声を聞き流そうと決めたとき、
外から聞こえる声の調子が少し変わった。
「この間、ワシは不思議な森に入っていったんじゃ。
昼間でもまっくらでなぁ。生えとる木々が、うねうねと曲がっとるんじゃ。
その森の端に、入口が複雑な形になっとる洞窟があってのぉ・・・」
まず松江の母親が熊楠の声の変化に気付いた。
「松江。熊楠さん、なんか変な事言い出したよ。
森がどうしたとか、木がうねうね曲がっとるとか」
「え? うねうね?」
松江はその言い回しが少し気になった。
一緒に暮らしている時、熊楠が時々使っていたのを思い出したのだ。
「ワシがその洞窟にふ~っと息を吹きかけると
地面がグラグラと揺れるんじゃ~」
2人は玄関に近づき、
外から聞こえる声に耳をそばだてた。
「そこからぁさらにぃ、進んでみるとぉ、黒くて丸い道しるべが三つ並んでおってのお。
なぜだかワシは、その道しるべを舐めとうなって舐めてみたんじゃ。
そしたらなぁ、さっきよりも大きく地面がブルブル震えるんじゃあ~」
「な~に行ってるんだろうね。あの人は。
うん? 松江、どうしたんだい」
何を言ってるのか分からず困惑する母親とは違い、
松江は先ほどから真剣な面持ちになり、
少しカールのかかった髪をかき上げ、
右耳の下の三つ並んだほくろをそっと手で触れた。
熊楠の演説はさらに続いた。
「そこからさらに下るとぉ、薄~い霧のようなもんが、地面を幾重にも幾重にも
包んでおるが、その向こうにはなぁ、
真っ白い大きな山が二つ、そびえ立っておるんじゃ」
松江の顔が、だんだんと紅潮して行くのがわかった。
「松江、あれは・・・」
「ちょっと静かにして」
何か言いかけた母親を制止して、
松江は外から聞こえる声に神経を集中した。
「山の頂上にはぁ、可愛い桃色をした小さな達磨さんがぁ、
丸い座布団の上に鎮座しておった。
ワシがそのふっくらとした山の上の達磨さんに、ちょんちょんと挨拶をすると、山の麓のずーっと先にあるもう一つの森の小さな泉から、
こんこんと水が湧き出しくるのじゃぁ」
「これ、まさか・・・」
余り品が良いとは思えない想像で松江の母親の頭は一杯になった。
それでも熊楠の声は止まらない。
「ワシはいつのまにか気分が良ぉなって、泉の中で行水をした。
すると不思議なことに空から声がしてきたんじゃぁ。
ああ。てんぎゃん、てんぎゃん。そげなことしたら、あかん・・・」
もはや疑いようはない。
松江は脱兎のごとく立ち上がり、閂を外して門を開け、熊楠の前に躍り出た。
「分かりました。もう勘弁してください。戻りますから!」
「そうか。それならよろしい」
先ほどまでの情けなさはどこへやら
熊楠は堂々とした足取りで自分の家に向かって歩き出した。
顔を真っ赤に火照らせた松江が、小さくなってその後を着いて行った。
胸を張って歩く熊楠の後ろ姿と、
恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうな松江。
松江の母親は、二人の姿に
なぜかほのぼのとしたものを感じていた。
「我が女房連れ戻すのに、夜の事を大声で叫ぶんかぁ、
ほんま、このひた、常識外れの天狗や、『てんぎゃん』やな」
おわり
南方熊楠は、生涯在野で研究をつづけた博物学者で、
その豪快な生き方が伝説のように語られています。
この実家に帰った女房を、夜伽の様子を家の前で再現することで
連れ戻したエピソードは、一部創作が入っていますが、
実際にあったらしく、常識では計り知れない人となりを示す
逸話のひとつとして伝えられています。
写真は、南方熊楠と一番弟子の小畔四郎
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