
孤独な人へ、ペソアのすゝめ
1.もうずいぶんまえから、私は私ではない
突然だが、自分のことを内気な方だと考えている人に質問したい。
ときおり、仕事人間のような力強いリアリズムに惹かれてしまった経験は無いでしょうか?
無いのであれば、あなたは強い。
だけど、そんな強い人間は稀有なものです。
ある、と答えた人は、残念。きっとこのフェルナンド・ペソアのウイルスに感染してしまうことでしょう。
フェルナンド・ペソア。この男に感染してしまったら、あなたの精神は彼のものになっていくでしょう。あなたが小さいペソアになって見、聞き、考えるようになるのです。しかも、このウイルス、非常に感染力が高いとある。
こう書くと冗談みたいに思われるのですが、自分が孤独だと感じる人、それから内省的な人や感じやすく生きづらい人、こんな人がペソアを読めば「私のことが書いてある」と感じないことは、間違いなく無いことでしょう。
しかも、いつでも、どのような時、気分でも。
そして読み進めていくうちに私と同じ人間がいるということ、それが本当に救いになっていくのです。私もそうでした。
ペソアとは
フェルナンド・ペソアは70以上もの「異名」を使って制作を行ったとされるポルトガルの詩人です。本国ではとても有名で、お札にもなっています。生きている間はまったくの無名でしたが、死後にトランクいっぱいの原稿が見つかり、友人たちの尽力により編集された著作が有名になりました。
この「死後評価された」というところが彼を伝説的にしている理由なのかもしれませんね。まだまだペソア本人の紹介はしたいところがたくさんあるのですが、本題は「ペソア入門」ですから、このあたりで終えてさっそく紹介に移っていくことにいたしましょう。
2.ペソア入門四選
アントニオ・タブッキ『フェルナンド・ペソア最後の三日間』
ペソアを知ったきっかけにこのタブッキの名前を挙げる人も多いのではないでしょうか。ペソアが亡くなる最後の三日間を「白昼夢」のような会話のなかに描き出したのが本作です。ペソアに影響を受けた文豪は多くあれどもタブッキほど傾倒した人はいないでしょう。タブッキ関しては須賀敦子さんの翻訳が有名です。『供述によるとペレイラは・・・』は文句なしに彼の代表作と言えますが、「虚構」性はペソアに近いものがあるように思えます。
noteの記事では?
noteであればこの人のペソアにかける情熱は群を抜いているでしょう。なんと一万字を超える愛をわかりやすい言葉選びで書かれています。私個人的にもとても好きな記事の一つです。
ペソアbot
もっと気楽にペソアを知りたいと思う人はTwitterのペソアbotを覗いてみるのがおすすめです。
『忘却についての一般論』
ちょっと変わり種を。去年の2020年に発売されたアンゴラの作家アグアルーザによる『忘却についての一般論』にはペソアの美しい引用が見られます。これは実際に1975年におこったアンゴラ内戦を背景にとったもので、ルドという女性が外部からの侵略を恐れてマンションの入り口をセメントで固め、27年間にわたる自給自足生活を送るというストーリーです。ペソアがメインとなっているわけではないですが、世代が経過し、おそらくもっとも私たちに近い年代のペソアのあり方が見られるという意味でおすすめしました。
2.何を読めばいいの?
しかしさあ、ペソアを読もう!思っても何を読めばいいかわからない人もいると思います。なぜならペソアは一部の読書家や専門家にしか知られていないマイナー作家で、情報も少ない割には多すぎる著作数があるからです。
そこで、何か一冊と言われれば間違いなくこの『不安の書』をおすすめします。
なぜなら、ペソアの著作の中で「全文が読める」「新本で買える」という条件を満たすのがこれだからです。
「全文が読める」とは?
和訳された『不安の書』には『不穏の書、断章』というものがありますが、これは『不安の書』を一部省略して訳したものです。もちろん入りとしては安価ですが、私は少々高くても全文をおすすめします。理由としては、簡単で省略することによって作品の質が大きく変わってしまうからです。
(ちなみに『さかしま』で有名なユイスマンスの中で重要作であるはずの『大伽藍』は日本語ではなぜか省略版でしか読めない。残念だが後期ユイスマンスを理解する上では重要な著作。思いついたので書いておく。しかし平凡社はすごい。レリスの『幻のアフリカ』もこの出版社。)
「新本で」買わなくてもよくない?
これが難しいところで、ペソアの本は手に入りにくく、重版がかからないため高騰しやすいという実質的な側面があります。(『ペソア詩集』などは何年も待っているのですがいまだに出ていません。)
しかし新本はちょっと高いよ、と言う人のために裏技を。新思索社の2007年版『不安の書』の古本をうまく見つけることが出来れば少し安く買うことができるかもしれません。2019年に『不安の書 増補版』が出たことによって少し値段が落ち着いてきた印象があります。ただし、増補版で追加された断章6篇と巻末の「断想集」が無いので注意。
3.最後にこれだけは・・・
何も実質的に紹介はしていないけれど、ペソアは孤独な人、感じやすい人ほど読んでほしい作家です。その救いになるはずの作家です。そして一人でも、そのきっかけになれば良いと思い私はこれを書きました。しかしペソアに「感染」し、沈底したあとは、ペソアから離れることも覚えなければいけないとペソアに感染した人から言って終えたいと思います。ペソアは確かに救いになります。しかしペソアはペソアで、自分とは別物だという簡単なことを忘れることになりかねない危険な作家でもあります。しかし幸運なことに、ペソアはそのように動かない読者を周囲に囲っておくようなことはしなません。彼が行うのは「私自身が文学になる」ということだけなのですから。
付記.ペソアの「異名」について(ブランショの「非人称の死」より)
ペソアの「異名」とは簡単に言えば「別名」のことです。
それで、「偽名」と何が違うのでしょうか。
そこにはペソアの言葉へのこだわりがありました。
もともとペソアにおける「偽名」とは「作品は作者に帰属する」という考えを逆手に取って、作品の帰属を曖昧なものとするための手段でした。
それはブランショの「顔の無い作家」としての態度とも重なります。これはペソアの「異名」をとりあえず理解する手助けになるかもしれないので説明します。
このブランショの態度は彼の有名な「非人称の死」という理論によるものです。そして『来るべき書物』ではカフカにおける「死」の概念を用いて彼の理論が説明されます。
カフカにおける「死」-ブランショにおける「非人称的なもの」
これらは「他なるもの」と言い変えることができます。そして、この「他なるもの」が「私」に代わって機能すること。これが書くことであるとブランショは言うのです。つまりそれは一つの私の「死」であり、言い換えれば私が死ぬと同時にその「他なるもの」が書くということです。
意味わからない!と思うかもしれません。しかし何か芸術作品を実作した経験のある人はこのことを経験済みだと思います。筆を運ぶのは「私」ではなく「私」を離れた力であるということ、私の「外」から来るものだということ。だから、よく聞かれるような「これは何を表現しているのですか?」という質問には困ってしまうのです。作品は「私」が設計したものではないのですから。
本題に戻って、なぜペソアは「偽名」でなく「異名」という言葉を用いたのでしょうか。
それは後藤恵氏のこの論文に詳しいのですが、http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/94322/1/lacs026020.pdf
これによれば「偽名」はその反対の「本名」に属するものでしかなく、それは作者自身の人格の中にあるもの、「私」ものでしかないものです。しかし「他なるもの」が書くということに厳密であろうとすれば別の呼称を用いらざるをえません。これが「異名」であるとペソアは言います。
ただしこの「異名」も虚構であることはペソアも理解していました。この「異名」の人物は結局のところ実在はしない、虚構の世界の住人でしかありません。だからペソアは「異名」者を実在するような工夫を用いながらも、その実存性に限界を示すことで手を打ったのです。
しかしこれにも例外があります。私が上で紹介した『不安の書』がこれです。この本の「異名」者はベルナルド・ソアレスという男で、この人物に関してはペソア本人と他の「異名」者との性格、経験の共通が見られるのです。
これは「異名」理論を覆すものなのではないか?という意見もあります。私はそうでは無いと思うのですが、どちらにせよ、このペソアの「私」と「他なるもの」がないまぜになった実在とも虚構ともつかない世界によって、私たちはペソアに感染すると言っても過言ではないでしょう。
ドキュメンタリー映像が「リアル」に見えるように「私のことを書いている」と思わせるためには虚構も必要なのです。しかし、これはテクニックの面から彼の魅力を説明したにすぎません。ぜひ、一読されることをおすすめします。