”たら・れば”の数。
初秋のある日。
月曜休みを取って週末を三連休にしていた。
暑かった夏も終わり、涼しくなった季節を満喫しようと二泊三日の秋旅に出るつもりだったのだ。
金曜日から続く秋雨は土曜も一日中降り続き、日曜の朝もどんよりした曇り空。
残念ながら連休の旅行はキャンセルし月曜は取ってしまった有休をただ消化するだけの日になってしまった。
月曜に目覚めてみると昨日の予報から一転、晴天が広がっている。
高くに見える雲は秋を感じさせる。
もし昨日の朝にこんな天気だったら、二泊目のホテルだけでも使ってこぢんまりと旅行ができたのに。
曇天だったけど、やっぱり出発していればよかったなぁ。
などとコーヒーを片手に思いを巡らす。
今頃は会社では仕事が始まり、皆慌ただしく働き始めている頃だろう。
こんな天気だっ”たら”。
出発してい”れば”。
”たら・れば”を口にしてふと思う。
どうしても行きたいならば多少の悪天でも出かけたのだろう。
実際この週末に出かけている友人もいる。
目的に向かって行動できなかったときは、大概の場合その要因以外に他にも何か原因となるものがあるような気がしている。
あの夏休みにもう少し真面目に勉強していたら、志望校に入れたかもしれない。
毎日ちゃんと練習していれば、ギターが弾けるようになったかもしれない。
あの時役員のいうことを聞いていたら、今頃部長になっていたかもしれない。
考えてみれば、”たら・れば”を口にする回数はその人の後悔の回数なのだ。
夏休みにもっとしっかり勉強しておけばよかった。
毎日真面目にギターの練習をしておけばよかった。
役員の意向を汲んで対応しておけば良かった。
後悔するということは、当時の自分にまだ対応の余地があったことを感じているのだと思う。
もう少し対応する余地があり、先に進める可能性もまだ手中にあったのにも関わらずに対応できなかった。
勉強しなかった。
練習しなかった。
意向を聞かなった。
いずれも自分の気持ちひとつでどうにでもなったことだったように思う。
きっとその時点では他に理由もあったのだろう。
でも覚えていない限りそう大した理由でもなく取るに足らない理由だったのだ。
きっと。
読みたい小説やマンガがあって気が散ってしまった。
上手く指が動かなくてすっかり嫌になっていた。
自分の考えに固執して指示を聞く気にはなれなかった。
くらいの今となれば取り留めもない「そのくらい我慢しろ」と言いたくもなるようなことがその当時は大きな力を持っていたのだ。
違う対応をしていたら今とは違う未来を手にしていたかもしれない。
でもそれが出来なかった、それをやらなかった、のが紛れもなく今の自分そのものなのだ。
”たら・れば”と後悔がたくさん身体のあちこちに住み着いている自分。
出来の悪い子供ほど可愛いというが、出来の悪いこの我が身を大切にしてあげよう。
慰めに焼き鳥でも行こうかな。タレのレバーでも食べに。