初秋のある日。 月曜休みを取って週末を三連休にしていた。 暑かった夏も終わり、涼しくなった季節を満喫しようと二泊三日の秋旅に出るつもりだったのだ。 金曜日から続く秋雨は土曜も一日中降り続き、日曜の朝もどんよりした曇り空。 残念ながら連休の旅行はキャンセルし月曜は取ってしまった有休をただ消化するだけの日になってしまった。 月曜に目覚めてみると昨日の予報から一転、晴天が広がっている。 高くに見える雲は秋を感じさせる。 もし昨日の朝にこんな天気だったら、二泊目のホテルだけでも使
子供の頃の理科の時間。 蝋燭の炎の色が場所によって違うのは温度によって色が違うからだと聞いた。 お昼ご飯の後の強い眠気の中で聞いたから間違っているのかもしれないが。 星の色が違うのも、またその温度なのだと聞いたことがある。 そもそも温度には色がある、ということで理解は間違いないだろう。 暑い日が続いているけれど、目に入る色に違いはあるのだろうか。 そもそも火傷するくらいの高音でなければ目に見えた色の変化はないのかもしれない。 それでも暑い中で気温を感じながら写した画の中に
囚われない 捉われない 捕らわれない(当たり前かw)。 少し躾の厳しい家だったようにも思う。 大して出来のいい息子ではなかったけれど、人様に後ろ指を指されるようなことはなく育ってきた。 中くらいの成績で目立つことも特になく、中くらいの進学校に行き中堅の大学に入り、まぁまぁ知られた企業でそれなりの職位についた。 俳優や作家、アーティストなどに限らず友人たちでも突き抜けたことをしている人を傍目に羨ましくも思いながら人生の時間を消費してきた気がする。 長く生きていたいとも思わ
陽射しが強い。 日陰に隠れても熱くなった空気が追いかけてくる。 身体の中に温度の高いものを送り込まれている気分だ。 渋谷の街中を少し外れたところ。 近くにオフィスビルもあればお店もあるがこの界隈は少し雰囲気が違う。 お手水の水の落ちる様は清涼のようで。 あるはずもない渓流を思い起こす。 汗を拭きながら進む人影の向こうに 懸命に鳴く、蝉の声。 . . .
料理を作るときに自分の中で気をつけているのは先に味付けの濃いものを食べてしまうこと。 休日の楽しみで作るときなどは、ついビールなんか呑みながら作ってしまう。 うっかりしてスナックなんかをつまんでしまうこともあって。 ポテトチップスみたいなスナックは塩味も強くて美味しいのだけど、その塩分で舌の感覚は少し麻痺してしまいその後の料理はやや味付けが濃くなる。 そして強めの塩味に若干の罪悪感も感じながらも美味しくてついつい食べすぎる。。 こうして休日のカロリー摂取が増えていく。。 味
カフェに朝早く行く。 そういう経験はあまり多くない。 早朝にオートバイで出掛けて、そのさきで冷えたカラダを温めようとカフェに入ることはある。 でも徒歩で出かけた際にはほとんど経験がない。 朝の空気はとても気持ちがいい。 どの季節でもいいのだけど、とりわけ秋から冬にかけてのピンと張り詰めた空気が満ちている季節が格別に気持ちがいい。 旧くからの街の景観を大切に守っている、その街に着いたのはすっかり暗くなってからだった。 夕食を摂ろうと街の中心地に行ってひとしきり食べて、呑んで
彼女の笑顔が見たいから、自分は一緒にいるのだ。 そんなことを話している俳優を見たことがある。 人が人と一緒にいる理由はそれぞれだと思うのだけど、この考え方はなかなか意を得ているなと思った。 確かに、一緒にいる時に笑顔を見られるのは嬉しい。 そしてその笑顔が自分にとってとびきりの好みだったら、生きててよかったと思えるくらいに嬉しいことだろう。 同じように。 笑い声も自分の耳に心地いい声というものがあるのだと思う。 自分の好きな声、好きな笑い方。 それは、つまりその相手を想う
32−3年ほど前。 秋から晩秋にかけて。 北米の東海岸の旅の途中で僕はシカゴからボストンに向かった。 ボストンはもうかなり寒くて学生街でパーカーを買った。 ボストン美術館に行きたかったので数日滞在したのだけど、街歩きも楽しかった。知らない街を歩くのは苦にならず大学もあるので食事も楽だった。 マサチューセッツ工科大学だったかそれともハーヴァード大学だったのか。 よく覚えていないけれど大学の建物のあたりを適当に歩き回って学生の多くいる食堂のようなところで勝手に座ってコーヒーな
観光客で溢れかえるメインストリートを横目に、ひと気のない路地に入る。 路地を入った少し先に”cafe”と手書きの看板が見えた。 築年数の経った2階建ての住宅を店舗にしたその店の1階。 店主らしき小柄な女性は視線を合わせずに小さく”いらっしゃいませ”と呟いた。 客席は2階らしい。1階にはお手製と思われる真空管アンプがいくつも置いてある。 2階に上がると先客の年配の夫婦がランチをどうしようかあれこれ相談する声が静かに聞こえてくる。オペラの楽曲だろうか、割と大きなボリュームでお
ある日、海辺のカフェから外を眺めていた。 窓の外にはおしゃれなお爺さんがコーヒーを飲みながら英字新聞をのんびり読んでいた。 見るともなしに眺めていると、はるか昔の幼少の頃。 母方の祖父に連れられてサンドイッチを食べたことを思い出した。 . どこかの駅のスタンドだったと思う。 背が到底届きそうにない高いスツールに乗せてもらってこぼさないように真っ白なパンでできたサンドイッチを食べた。 祖父はそんな僕の姿を見て微笑みながらコーラを飲んでいた。 すらりとして白髪で、カッコい
写真を撮っているときに。 ふと気がつくと頭の中に曲が流れていることがある。 時には口ずさみ、時には好きな歌手の声が広がる。 想うに、独りで撮り歩く写真なんてものは自分の気持ちと向き合うことなのかもしれなくて。 ひと気のない山道をオートバイで静かに流している時や全く釣れる気配のない渓流でロッドを振っている時にも似ている。 少し大袈裟に言えば、独りでこの地球に対峙しているようなそんな時間と同じものなのかもしれない。 solitude 英語の特にできない自分でも曲の歌い出しか
久しぶりに丸の内をカメラを持って散歩してきた。 いっときに比べて人出もかなり多くなり、自粛ムードが蔓延していた頃を忘れてしまいそうなくらいの人の多さだった。 カメラを持っての散歩は陽が傾いてからがいいと思ってる。 夕方から夜へと向かう夕暮れ時は気持ちがいいだけでなくて写真そのものにもプラスアルファの効果をもたらしてくれる。 そんな夕暮れ時。 人混みの中にひらひらと白いドレスが舞っている。 向かいにはタキシードを着込んだ男性もセットだ。 ウェディングの前撮りってやつかな。
まだ小学校に上がる前、海辺の町に引っ越した。 海辺のといっても半島の先っぽ。 鄙びた漁師町と小さな商店が数軒並ぶだけ。 本屋に行くにも車に乗って行くような町だった。 でも海だけは身近にあって、家からすぐ行ける堤防には、漁から帰ったポンポン船が長閑に家路を進んでいた。 小学校に上がる少し前から補助輪を外した自転車で海岸まで走った。 春も秋も夏の日も。 ひとりで、友達と。 でもなぜなのか、家族で行った記憶はない。 子供には遠い距離だったように覚えている。 ひたすら漕いで漕い
茅ヶ崎の海が少々荒れていた日。 波がいいのだろうか。 サーファーたちはホクホクした顔をして海に向かう。 たくさんの彼、彼女たちが波に合わせて上下している。 僕はそれを岸から見ている。 人間ってなんてちっぽけな存在なんだろうって急に思う。 水の上の小さな点々が波の上下に合わせて動いている。 それぞれの腕力だとか脚力だとか全く無効な世界。 波のひと捻りでいとも簡単に飲み込まれてしまいそうだ。 こういう風景を見ていると、自然に遊んでもらっているという感覚になる。 思えば大きな
朝食を食べながら、ふと思いついた。 いつもは部屋で書いているnoteを 外から書いてみよう。 今渓流にいる。 気温は普段よりも高めだけど 心地いい風が吹いている。 蝉の鳴き声と 渓流の涼やかな音と さっきから僕を見つけて吠える 小さな番犬の音だけが 僕の周りにある。 釣り人が無心に竿を振っている。 このポイントはあまり釣れないから 結構苦労するだろうなぁ。 番犬くんは諦めたのか 吠えるのをやめた。 蝉の鳴き声と 渓流の音だけが響く。 .
少し前、といっても3年ほど前の街中の写真。 この頃はまだ夏にマスクをする習慣は無かった。 今だって習慣になったわけじゃなくて、必要に迫られているからだけれど。 でも一度体験してしまったこの状態が、一体いつまで世の中に影響を及ぼすのかよくわからない。 インフルエンザのように経口薬で治療ができる目処が立てばまた昔のように戻るのだろうか。 案外このまま数年は時が過ぎるような気もしている。 窮屈なモノは嫌い。 僕はマスクをしなくていい場所を探しに行くのだろうか。 歩きながら雨の