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親に愛されなかった子は救われるのか

私は以前に『論語』は残酷な書だと書いたことがあります。

『論語』というと、道徳について書かれた書だと捉えるのが一般的だろうと思います。人間たるものが為すべき行いや心がけについて書かれた書。

ですが私の認識は違います。『論語』は人間観察の書。人間社会観察の書です。科学に近いものの見方で書かれた人間理論の書です。だから残酷になってしまいます。

理論の残酷さが端的に現れているのが、陽貨第十七の二一。

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宰我という人物が孔子に問うたんですね。親が死ぬと三年間喪に服すべしとされているけれども、長すぎるのではないか? と。一年経てば季節は一巡し、新しい収穫もある。自然に従って、服喪は一年で十分ではないのかと。

孔子は宰我に「一年でメシウマになれるのか」と問い、宰我が「十分メシウマです」と答えている。孔子は「なら、好きにすればいいではないか」と。

宰我が去った後、孔子は言いました。可哀想なやつだと。生まれて三年間、たっぷり親の懐に抱かれて育っていればたった一年でメシウマになんかなりはしないのに。

『論語』では親子の関係を人間関係の基本だと捉えます。

これは当然と言えば、あまりに当然です。未熟な状態で生まれてきた赤ん坊がはじめて人間関係を築くのは、まずは父母なんですから。子は父母から注がれる愛情を糧に、人間として成長をしていきます。

赤ん坊には食べ物だけを与えていれば順調に発育するわけではありません。この事実が「再発見」されたのは第二次世界大戦のイギリスです。ジョン・ボウルビィから始まった愛着理論がそれです。人間の子どもには十分な「触れ合い」が必要だと愛着理論はいいます。

孔子は言います。「生まれて三年間たっぷり親の懐に抱かれて育っていれば、親が亡くなってたった1年でメシウマになんかなりはしない」。残酷な事実です。

これのどこが残酷な事実なのかがピンとこない、“不仁”つまり可哀想な人もおられるでしょうから、少し解説しましょう。

生まれて三年間たっぷり親の懐に抱かれて育った子どもにとって、親は「かけがえのない存在」になっています。愛着理論でいえば「(心の)安全基地」そのもの。それが失われてしまうということは、心の支えを失ってしまうということです。

「成人した後も親を心の支えにしているだなんて、なんと未熟なことか。そのどこが可哀想なのか?」

孔子に“不仁”と評された宰我なら、そう言うでしょう。まったくピンとこないのも無理かるぬこと――「上から目線」はご容赦ください。

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ここは別の書の力を借りましょう。

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『嫌われる勇気』では、人間関係を「縦の関係」と「横の関係」に大別しています。重要なのは「縦の関係」と「横の関係」の共存はあり得ないという指摘です。

アドラー心理学の真髄は「縦の関係」の否定です。徹底的に「縦の関係」を否定し、「横の関係」を築けという。

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「ゴルディオスの結び目を断て」。こんがらがって解きようがなくなった綱の結び目をアレクサンダー大王が一刀両断にしてしまったという伝説を引用して、暴力と言っていいほどに幼児期のトラウマを否定してしまいます。

そしてこのように言い放ちます。

「世界とは他の誰かが変えてくれるものでなく、
  ただ「わたし」によってしか変わりえない。」

この放言は真実です。だからこそ残酷なのです。知性ではそのことを理解できたとしても、できない人間が現実にはたくさんいるからです。

またアドラーはこのように言ったとも『嫌われる勇気』には記されています。

生き方が変わるようになるには
「それまで生きてきた半分の年数」が必要になる。

若者は大人よりも先を歩いている。

これらの言を敷衍すると、子どもにはアドラー心理学は必要がないということになります。けれど大人は必要としている。ということは、どこかでアドラー心理学を必要とする「転換点」があるということになります。この「転換点」が早ければ早いほど幸福になれる。もっというならば、「転換点」などない方が幸せだということです。

すなわち、生まれてからずっと「横の関係」。

人間という生き物の成育機序から考えて、これをできるのは父母において他はありません。『論語』の陽貨第十七の二一から当てはまるところを探せば、適合するのは

三年之愛

でしょう。

子どもは未熟です。対して大人は成熟しています。子どもと大人を為し得る成果を基準にしてみると、そこに成立するのはどうしても「縦の関係」。それ以外にありえません。

「三年之愛」とは、未熟でどうにもならない役立たずを「横の関係」として捉えることに他なりません。成果を上げる能力はなくても、自分と同等の存在として接する。してみれば能力の差を埋め合わせるのが「愛」ということになりますが、これは本能的に備わった人間の機能だと言えるでしょう。

重要なのは、成果よりも本能なのです。人間だって動物なんです。

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「成人した後も親を心の支えにしているだなんて、なんと未熟なことか。そのどこが可哀想なのか?」

ここに疑問を抱く人は「成果主義」の人間。「縦の関係」で生きている人です。

「縦の関係」で生きている人たちにとって、幸福とはイコール成功です。社会的に認知されるポジションを占め、人並み以上のお金を稼ぐことができる人たち。彼らにとって人生で最も大切なのは、競争に勝ち抜いて「縦の関係」の「上」を維持すること。

これはこれで認められるべき――いえ、もはや時代がそれを許さなくなるでしょう。「縦の関係」で関係性を築き上げてきた人間は、自然環境に対しても「上」を占めようとしてきました。

ですが、どう考えても自然のほうが「上」。考えなくてもわかるはずの事実に人類は最近になってようやっと気がつき始めています。

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このような気づきは現在ではまだ一部のものですが、時代は急速に変化していきます。これまで意識されるまでもなく当然とされてきた「縦の関係」は、自然からの外圧によって「横の関係」へ組み替えていくことを余儀なくされるでしょう。

そうなると重要になってくるのは、いかにして「縦の関係」を「横の関係」へと組み替えていくか、です。この課題は、

親に愛されなかった子どもは、いかにすれば救われるのか

という課題とまったく同質のものです。単に問い方が違うだけ。

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この問題は、私がずっと考え続けてきた問題です。最近になって、ようやく答えが見えてきたような気がしています。

アドラーで変わることができるのは、変わることができる人間だけです。アドラーは勇気を持てと言いますが、勇気が機能し得るのは「心の安全基地」を持つ者だけ。「心の安全基地」なき者にとっての勇気は蛮勇にしかなりませんし、蛮勇の果てに待っているのは破滅であるのがセオリーでしょう。

鍵はやはり『論語』の中にありました。〈学習〉です。

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学習は勉強とは異なります。
勉強は一方通行。
学習は双方向。

〈学習〉が双方向であるということは、その性質からして連鎖していくもの。なんのことはない、連鎖させていばいいのです。ただ、それだけ。

私があなたに何らかの学びを与えるとしましょう。
それが学習であるならば、学習は双方向ですから、
私もあなたも学びを得ます。
教わる立場が成長する〈学習(レベル1)〉。
教える立場が教わる立場の〈学習〉に気づいて「学び」を得る
《学習(レベル2)》。

次はあなたがだれかに学びを与える番です。
それが学習であるならば、学習は双方向ですから、
あなたも誰かも学びを得ます。
あなたが教える誰かは〈学習〉をして成長をし、、あなたはあなたが押している誰かの〈学習〉の様子から学びを得て《学習》をして成長します。

親に愛されなかった子どもの「救い」が立ち現われるのは、

《学習》による成長

においてです。

親に愛されなかったあなたは、
同じく親に愛されなかった誰かに学びを与え、
その誰かの〈学習〉から学んで《学習》するときに、
あなたが親から得られなかったものを

自らつかみ取ることができます。


知育においても、「もっとも効率よく学ぶ方法は誰かに教える」ことです。これは、愛情という人間が人間であるための基本成分においても同じです。

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学習は人間の本能です。

私たちにホモ・サピエンスの本能として人間が認識しているのは、食欲・性欲・睡眠欲の三つですが、これは認識不足です。ホモ・サピエンスには社会欲という四つめの本能があります。

実にシンプルな話です。種が本能とは生き延びるための能力です。食べること、生殖すること、眠ること。私たちホモ・サピエンスは生き残るために「社会を作ること」を生存戦略として選んだのですが、社会欲は認識されて然るべきものです。

学習は社会欲の発露の一形式です。ヒトは相互に学習をし、互いに認識を深め合うことで高度なチームワークを組み上げることが出来るようになります。ホモ・サピエンスのように身体能力があまり高くない動物においては、高度なチームワークは生き延びるために必須の能力です。

親から子への愛情もまた、社会欲の発露の一形式です。親は子と高度なチームワークを組み上げることが出来るメンバーとして育て上げるために学びを与えます。この学びの初期形式が「(三年之)愛」です。現在では孔子の時代よりも“愛”という言葉の適用範囲が広がっていて、“愛”は社会欲の初期形式以上のものを指すようになっています。

親が子に与える「愛」は、社会を生成するための本能の発露です。同様に、〈学習〉を学ぶ《学習》もまた、社会生成本能の発露。レベル1の〈学習〉も本能ですが、レベル2の《学習》はより高次の、「親の愛」と同等のもの。同等のものでもそれは本能ですから、もとより能力が備わっています。後は発露させればよいだけのこと。

発露させて体感し、他に応用していけばいい。
あとは、そのための仕組です。

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ホモ・サピエンスが生き残るために必須の社会生成が、双方向の学習を阻害して一方通行の勉強に偏ってしまったのには理由があります。そのようにシステムが組み上がってしまったからです。

「そのようにシステムが組み上がったこと」にも、理由はもちろんあります。その理由を求めるには歴史を追いかけていかなければならなくなりなって、長いものになりますから、別の機会とすることにしましょう。

勉強に偏ったシステムを組み替える準備はすでに整っています。あとは、組み替えを始めるだけ。

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