「なーんか」がとっても。

このテキストは「伝えたい」というよりも「書きたい」の方です。

ただ、ひとりの方には是非とも伝えたい。


ぼくは高橋恵子さんの絵が好きです。

拝見していて、いつもいつも心揺さぶられています。

やってみれば大変であろうことを、なーんでもないように描かれていて。


当たり前のことですけれど、「大変なこと」は大変です。大変なことをこなしていくのは上手くすれば誇りになるし、下手をすれば重荷になる。

誰だって「大変なこと」は誇りにしたい。重荷にはしたくない。だからそこには承認欲求が働く。

承認が得られれば誇りになるし、得られなければ重荷になる。この、誇りになったり重荷なったりする心の動きは、要するに「欲」――仏教の言葉を借りれば「煩悩」――であるわけです。

この煩悩は、ぼくの中にもあって、それが「羨望」へと変化していったりする。


煩悩が、高橋さんの絵たちからは感じられないんです。介護が必要なお年寄りと向き合って、大変なはずのことが、なーんでか、なーんでもないように描かれている。

この「空白」というか「無」は、暖かくて爽やかに感じられると同時に――いえ、暖かさや爽やかさを引き立てていると同時に、ぼくには羨望の的にもなる。


そんな絵達のなかでも、とびきりにぼくの心に響いたものを、ご当人の承諾を得て、ここで紹介させてもらいます。


もうね、これにはまいったな~ ♬ と。

「なーんか」でいいんですよ、本当は。
でも、「なーんか」で終わってしまうと哲学なんて要らないし (^_^;)

まあ、終われないから哲学が必要だったりするわけだけれど。




上の絵を拝見して、何かを書きたいと思って、高橋さんに絵の転用の承諾をもらって、でも、なーんだかすぐには書き始めることができなかった。なんというか、「とっかかり」が思い浮かんでこなかった。

それが、今朝、やっと思い浮かんだ。思い浮かぶと不思議なもので、スラスラと言葉が生まれてくる。


「とっかかり」として思い浮かんだのは、若かりし頃に読んだ吉田秀和さんの文章。正確なところはうろになっていますが。元はたぶん『世界のピアニスト』という本だったと思います。

それはウィルヘルム・ケンプというピアニストが、おそらくは公開のレッスンででしょう、その最後になんでもないようにバッハを弾いて見せたというもの。最後のバッハに、吉田さんは感銘を受けたという内容でした。

これまたうろ覚えですが、レッスンの曲目はベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタの第一楽章だったはず。大変に厳しい音楽です。晩年のベートーヴェンが至った(至らざるを得なかった)心境が楽譜にどのように具体的に表現されているかを説明し実演して見せた後、結びにバッハを、何の前触れもなく演奏した。

それは、いきなりに広々とした高みに連れて行かれるような体験だった――と吉田秀和さんは記述していたと記憶しています。

残念ながら、そのバッハが何の曲かは忘れてしまいましたが。

具体的な曲目は忘れても、バッハならば思い当たるフシはあります。広々とした高み――これまた仏教の言葉でいうならば「浄土」――を思わせるような音楽が、バッハにはあります。

それは、たとえば、こんなの。

邦題で『主よ、人の望みの喜びよ』。
1947年の古い録音ですが、「広々とした高み」というと、どうしてもこれが思い浮かびます。


「とっかかり」ができれば次々と芋ずる式に「書きたいこと」は浮かんできますが、今回はこのあたりにします。

もうすでに、書き手のぼくは、なーんかいい気分です ♬


(バッハなんかを書かないでいられないのが「煩悩」なんだけれども...(^_^;)

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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。

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