細々とした親への愚痴
書き出すと記憶が消えるのと、自分のやりたいことが意外と過去に止められたり批判されたものに関係していることが多い気がするので、色々書くことで自分を省みるために書きます。小さめの愚痴が多いです。
作文について
小2の時に遠足で動物園に行き、その後動物園に行った時の作文を書きなさいという課題が出た。
私は、作文は苦手だったけれど、一生懸命書いた。学校で終わらなくて、家で書いた。原稿用紙は3枚目に突入していたけれど、なんと、まだ学校にすらついていなかった。当時私は作文の書き方をしらなかったので、朝から帰ってくるまで全ての工程を書こうとしていたらしい。
書いているところに母がやってきて、私の書いた作文を読んで一言「これ、まだ学校にすらついてないじゃん」
それは事実だったのだけれど、当時の私は苦手な作文をかなり必死に書いていて、この一言にとてもショックを受け傷ついてしまう。
こうして文に書いてしまうと大したことない出来事なのに、でもこうやって書いていると、とても悲しい気持ちになってくる。
母も鼻で笑われた感じはしたが、思ったことを言っただけだと思う。
元々感想文や詩などがとても苦手で、書く時に常に苦労していたのが、さらに自信がなくなった感じがした。
余談になるが、私は大人になってからも、真っ白な紙に自分で文章を1から書くという行為が、自分でも不思議なくらいに、驚くほどできなかった。
人間の絵を描くと足と手がどうしてもかけなかったという記事を以前書いたことがあるが、それに近い感じで適当にすら書くことができなかった。
でも、国語は大好きで、成績もかなり良く、読書も大好きで年中本を読んでいるような子供だった。
大人になってからも、自分が何か文章を書かなくてはいけないようなことは出来うる限り避けていた。
ところが、ある日、突然文章が書けるようになる。
その日、私はブログの記事を書こうとしていて、ふと、文章というものは言葉で絵を描くようなものなのだということに気がついた。
絵ならば線や色で描きこんでいくものを、言葉を使って描いていくのが文章なのだと腑に落ちた瞬間から、私は文章がすらすら書けるようになった。
徐々に文章が書けるようになった訳ではなく、完全に0→100状態でできるようになった。
不思議な体験だったなと今でも思っている。
ピアノを弾いてと頼まけれど、
小1くらいの時だったと思う、母が参加していた小学校のママさんバレーのメンバーがうちに来て食事会をしたことがあった。
(そういえば、誕生日会はやってくれなかったけど、人来てたね。)
皆ママさんなのでもちろん子供達も一緒に連れてきていて、子供たちは子供たちで遊んでいた。
お酒も出ていたので大人は酔っている人もいたと思う。
飲み会はピアノの置いてある部屋で行われていて、ある時、子供達と私も大人がいる部屋にいた時に、ママバレ友の一人が、私にピアノ弾けるんでしょ、ちょっと弾いてみてよといってきた。
私はその時は、周りに他の子供たちがいたので恥ずかしくて弾かなかったが、子供たちがいなくなってから、ピアノの前に座り、ピアノを弾き始めた。
すると、先ほどピアノを弾いてよと言ったおばさんが「なんであぁ子供って、自分が弾けるのを聞かせたがるんだろう」というようなことをいった。
私は弾いてと頼まれたので、少し遅くなってしまったが弾いたつもりでいたが、そんなことを言われて恥ずかしくなってすぐにピアノを弾くのを辞めて、他の子達が行った部屋に逃げた。
当時、大人はとても身勝手だと思ったし、傷つけるようなことを平気でいうと思った。
NHK合唱団のオーディション
小3のとき、学校の合唱団に入団した。
本当は合唱団に入団できるのは4年生になってからなのだが、私の学年は歌が上手いと言われ、3年生のときから入団の許可が降りた。
一応入団テストのようなものが行われて、当時の私は歌があまりうまくなかったので、おまけで合格にさせてもらった。
合唱団に入って1年ほどたった時、NHKの合唱団のオーディションの話が私の小学校の合唱団のに回ってきた。NHKの合唱団というのは、教育TVの子ども向けの音楽番組などで、歌を歌っている子たちのことである。
私はそのNHKの合唱団の入団オーディションを受けたくて仕方がなかった。
TVがみられないのであれば、TVの中に入って仕舞えばいいと思ったのである。自分の実力とか全然気にしない気持ちのいい猪突猛進っぷりである。
けれど、これも親から許可が降りなかった。この件に関してはかなり食い下がったが、どうしてもOKと言ってもらえなかった。私は泣く泣く断念した。
後々聞いた話によると、渋谷までのお迎えとかやってらんない無理ということだったらしい。
ちなみに幼稚園の時から仲の良かった友達は、オーディションを受け、合格し、歌番組などに出演していた。
私もやりたかったなぁ。
NHK合唱団だけでなく、私は新聞にたまに乗っている、劇団東俳や劇団ひまわりが子役募集しているのをやりたいなぁと思っていつも眺めていた。
でも、いったい何をやるのかは分かってなかった。演劇に興味があった訳でもなく、ただ、TVがみれないのでTVの世界に入りたいと思っていただけだと思う。
学芸会
小6の時の学芸会で「エミールと探偵たち」という作品の劇をやった。
私は劇などで主役をやりたいタイプだったのですが、小4の学芸会では主役になれず、小6の学芸会で念願のエミール役に選ばれます(ただし、エミールは6人くらいいる)
セリフもバッチリ覚えて学芸会当日、当時の私はやっとショートカットの縛りから解放されて、髪を伸ばしていた。
エミールは男の子だったので、エミール役をやる時は、髪を結んで帽子の中にいれていたが、本番直前、髪を高く結いすぎて、帽子を被っても落ちてしまうという状態になってしまった。結い直している時間がなかったので、私はそのまま舞台に上がり、落ちそうな帽子を押さえながらエミール役を演じることになってしまった。
するとそれをみていた母親がその後しばらく「エミールの帽子があれじゃあねぇ」というようになった。もちろん学芸会の感想もそれである。母はそういった出来事が気に入ると何度も何度もことあるごとにネタとして引っ張り出してきていうようになる。だいたい私のミステイクのネタが多い。あと、誰といるかをあまり考えないでいう。大人になっても子供の頃の恥ずかしいエピソードとかを他人の前でネタにして出してくることもある。この間もあった。私が怒ったので途中で話すのをやめたけれど、本当にやめて欲しい。。(それをいったら私がどういう気持ちになるかとか、言われた側が対処に困るとか、単語に反応して自動再生されているので考えられないらしい)
せっかく主役をやれた学芸会はそんな思い出になってしまった。
合唱祭の伴奏の話
中学になると毎年秋に学年別クラス対抗の合唱祭が開催された。
順位もでるので、各クラスかなり熱を入れる行事だった。
合唱祭では課題曲と自由曲の二曲を歌うことになっていて、伴奏者もクラスの人間だった。一年生の時にピアノが弾けることがバレて伴奏者になってしまうと、その後3年間、伴奏担当者はクラス替えの時、各クラスに満遍なく振り分けられ、毎年伴奏を弾くこととなる。私は一年でピアノが弾けることがバレてしまったので3年間一曲伴奏を弾くこととなった。
やりたかったかと言われると微妙だが、指揮者のこと放課後練習したりしたのはいい思い出なので、貴重な経験ができたと思う。
2年の時『樹氷の街』という自由曲の伴奏を弾くことになった。
深々と雪が降る様子が伴奏になっているとても綺麗な曲なのだが、私は合唱祭の3週間くらい前に、部活のバスケで剥離骨折をしてしまった。医者に全治1ヶ月といわれた。自由曲なので他に伴奏を弾ける人がいないため、教員団はやばいぞという空気になったらしいが、私はそれほど痛くなかったので、固定した状態で練習にも普通に参加し、本番も弾いた。本番後医者に行ったら治っていて医者に驚異的な回復の速さだと言われた。
その時の本番の演奏を聞いた母親は『ドカ雪が降っているようだった』と感想を言ってきた。雪が降っている綺麗さが出てないとディスられたのだ。
この言葉にも私は深くきづついた。
これもしばらくネタとして言われていた。本当にやめてほしい。
展覧会などの作品
小学校では2年に一回展覧会があり、優秀な作品は区展や都展に進み展示されていた。
私は比較的図工が得意で展覧会に出したものはだいたい区展に出品されていた。区展に出品されると賞状がもらえる。
いつも賞状を持って帰ってきて親に渡していたがそ、のことに関してなにかリアクションをもらった記憶があまりない。作品を褒められた記憶もあまりない。
それでショックを受けていた訳ではないけれど、あまり認知されてなかったんだなぁと思う。
最後に
今回は完全に私の子供の頃の愚痴である。
手放してしまいたい悲しかった記憶である。
ただ、書いていて気がついたのは比較的表現しているものを批判されると傷ついていたんだなということ。
この辺りのポイントは、たとえ同じ親に育てられたとしても、人によって違うのではないかなと思う。
あと、今であれば、親に限らず人がなにか言ってきたとしても、『それでも私はこれがいい』とか『私は頑張ったのだからそれでいい』などと自分自身で思うことができるが、当時の記憶を思い出した時に、その当時の自分に『それでも私はがんばったからそれでいい』と思わそうとしてもできなかった。
結局子供の頃は母と私はべったりくっつき二人で一つのような状態になっていたので、母の言動によって私の情緒は常に振り回されていたのだと思う。
今はそれこそ、世にいう『自分軸』というものができたので、母や他人がどういっても、自分のこと自分で慰められるし、自分でそれでいいと言えるようになったが、子供の頃、あの状態で、親がなんと言おうと私は私を私は展開できなかったのはしょうがないのかもしれない。
あと、誰かを上から目線で批判するのって、快楽物質が出るんだろうなとも思った。いじめっこが『いじる』感じでいじめてるのと私の母親がやってたことはあまりかわらなかったのではないだろうか。
本人自己肯定感は低いほうだと言っていたので、きっとそれが原因なんだと思う。