戦国武将に学ぶ!No.7~直江兼続~
”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。
このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。
私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)
社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。
今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。
歴史には諸説ありますが、
中でも私が好きなエピソードや、
『ビジネスや人生に役立つのでは?』
という目線でご紹介しています!
最後まで楽しんでいただけたら幸いです。
■関ケ原の戦いの引き金『直江状』
大河ドラマ『天地人』の主人公、
直江兼続(なおえかねつぐ) 。
ご存じの方も多い武将かと思います。
上杉謙信の養子である
上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続は、
幼少期より謙信から、
『五常の徳(仁・義・礼・智・信)』を
規範とし、慈愛をもって民を大切にすること
を学びました。
謙信の後継者となった景勝に生涯仕えた
兼続ですが、その兜も有名です。
謙信の影響なのか、
兼続は兜に『愛』の文字を使いました。
歴史好きの中では有名ですが、
実は兼続は、あの関ケ原の戦いの
きっかけになった人物と言われています。
豊臣秀吉が亡くなった後、
徳川家康が実権を握り始めます。
上杉景勝に謀反の疑いをかけた家康は
上洛を命じますが、兼続がそれを阻止します。
『このタイミングで主君を行かせたら、
もしかしたら殺されてしまうかもしれない…』
と危険を感じ、兼続は行かせなかったのです。
この家康の命令に “直江状” といわれる
返書を送りました。
一説によるとこれが家康に対する失礼や
侮辱となり、『宣戦布告した』
とされています。
しかし見解は他にもあり、実際のところは
わからない部分もありますが、
直江状は家康に対して本当は丁重で、
敬意を払った文書になっていたとも
言われています。
しかしいずれにせよ、
後の関ケ原の戦いの引き金になった
”会津征伐” を招いてしまうほど、
家康を怒らせたことには違いありません。
家康の命令を拒否するくらいですから、
兼続としては主君である景勝を
守るために必死だったのでしょう。
会津征伐の道中、石田三成が挙兵して
関ケ原の戦いが起こり、
結果的に西軍が敗北します。
西軍側だった兼続は、上杉家を守るために
自害はせず、景勝とともに家康の元を訪れ
謝罪を申し入れます。
その際、兼続は、
『すべて私がしたこと。主君は何も悪くない』
と景勝を庇ったのです。
この兼続の忠誠心と男気を見てとったのか、
ほとんどの西軍一派を取り潰しにした家康は、
景勝、兼続をゆるし、取り潰しはしませんでした。
■君主だけでなく家臣や民衆も守った
取り潰しは免れたとはいえ、
会津120万石から米沢30万石に
領地を縮小されてしまいます。
現代風に表現するなら、
売り上げが120億円から30億円の
4分の1になったのと同じです。
これだけの財政難に陥ってしまうと、
当然いろんなことを考えなければいけない。
家臣たちを雇えない、養っていけない。
景勝は家臣たちのリストラも考えますが、
兼続が断固拒否します。
『家臣を手放したりしない。雇い続ける』
と説得します。
景勝は兼続を信じて任せました。
もちろん厳しい条件だったはずですが、
倹約も含め治水事業などのさまざまな事業に
取り組み、なんと30万石から50万石へ復興
させました。
やらなければならないことには徹底して
取り組み、責任を取るときは徹底して
責任を取る。
そして守るべきものは徹底して守る。
家康に上洛を命令されたとき、
兼続にとってそれがもし正しいことで
あったなら、きっと兼続も承知したでしょう。
しかし家康の策略を見てとってのか、
たとえ天下人の命令であっても、
自分の正しさを貫きました。
自己の欲や野心に溺れることなく、
愛と義に生き、愛するもののために
奮闘した兼続の生き様…
かっこいい!!!
直江兼続についてはすでに
大河ドラマ化されているので…
映画化を熱望!!!!
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