殺された天一坊 - 浜尾四郎|『米澤屋書店』紹介短編・読書感想文
『殺された天一坊』(浜尾四郎)は、『米澤屋書店』(米澤穂信)で紹介されていた短編です。青空文庫で誰でも無料で読めます。
私はAmazonのKindleアプリで読みました。
背景
天一坊事件
天一坊という山伏が、自分は江戸幕府8代将軍 吉宗の落胤(正妻でない女にひそかに生ませた子)であると吹聴して、浪人を集めていた。それが虚偽であると裁かれ、死罪になった。
この事件を元にして、裁いた御奉行様の様子を描いたのがこの『殺された天一坊』という短編。
大岡裁き - 子争い
もう一つ、エピソードとして使われているのが、子争いの裁きの話。
ある子供の母親だと主張する女が、なぜか二人いて争っている。子供を綱引きをさせて、子供が痛がるのを可哀想に思い、手を離した方が真の母親だと裁いた。
内容要約(2200字)
橋本さき
あるとき、一人の子供を二人の女が我が子だと取り合う争いが起こった。御奉行様が裁きを担当し、子供の引っ張り合いをさせ、勝った方が母親だと認めることにした。実際に引っ張りあうと、子供が痛がって泣き出し、片方の女が手を離した。
御奉行様は「痛がって泣いても、かまわず引き続けるのは真実の母親ではない」として、手を離さなかった女は偽りの母だと裁いた。
後日、川へ身投げした女の水死体が見つかった。
懐には遺書が包まれていた。
「橋本さきと申します。自分の腹を痛めて産んだ、愛しい愛しい子を取り返すために、御奉行様の前に出た女でございます。あの裁きでは、私が本当の母親なのにもかかわらず、私の負けとなりました。
判決は受け入れなければなりません。にしても、私は我が子を取り戻せなかった、ただそれだけのはずでした。私は母親を騙る大嘘つきとして、江戸中から無視されるようになりました。親類も離れるようになり、家主からは追い出され、仕事にもありつけません。江戸中を野良犬のように歩き回り、雨をしのぐ軒先からも追い出されます。どうして生きていられましょう。死んでこの苦しみから逃れます。
御奉行様は、引き勝ったものにその子を渡すとおっしゃいました。私はその言葉を信じたのでございます。痛みで子が泣き出したとき、私も泣きそうでした。でも私が手を離せば、未来永劫この子は私の元へは戻らない。御奉行様は自分の言葉が母親にどれだけの決心をさせたか、わかっていないのでございます。偽ったのは私ではありません、御奉行様なのです。」
煙草屋彦兵衛
ある後家(未亡人)が殺された。調査の結果、色恋沙汰の事件だとわかり、付き合っていた男を探すこととなった。
御奉行様は容疑者の男数名をお白洲(裁判が行われる白砂利の庭)に集めた。そして、被害者が長年飼っていた猫を放したところ、猫は煙草屋彦兵衛という者の元に寄り、膝に乗った。猫は飼われていた家に出入りする男を覚えていたのだ、と御奉行様は煙草屋彦兵衛を捕らえさせた。
彦兵衛の弁解によると、自身も猫を飼っており、その友達猫がちょくちょく家に遊びに来ていた、その猫が被害者の猫だったのだという。御奉行様は、ではお前の飼っている猫を連れてこいと指示した。しかし、彦兵衛の飼い猫は10日ほど前から行方知れずになってしまったという。
結局、飼い猫のことは証明できず、責められているうちに、後家殺しのことを白状することになった。彦兵衛はただちに処刑となった。
ところがその後、村井勘作という極悪人が別件で取り調べ中に、突然に後家殺しを御奉行様の前で白状した。猫嫌いだったため、家で猫を見かけると足蹴にすることもあり、猫も村井から逃げるようになっていた。
天一坊改行
自分の智恵に自信を持っていた御奉行様だったが、上記2件の後はしばらく自信をなくしていた。それでも、御奉行様の世間での評判は変わらず、非常に評価されていた。智恵に関してはやや自信を失ったが、評判や名声という点で自信を取り戻した。その後は、よりいっそう自分の評判を気にするようになった。
そこに現れたのが、天一坊改行という男だった。
将軍様のご落胤を名乗る天一坊なるものが、江戸にやってくるとの噂が流れた。それを耳にした御奉行様は、ひどく暗い様子だった。
江戸にやってきた天一坊と一度対面した後などは、さらに暗い様子になり、それまでになく恐ろしく、厳しい面持ちとなった。何かただならぬ決心をしたかのようだった。
普段から御奉行様は、「裁きの始まる前から判決を決めているようなことがあってはならない。相手の美醜に影響されても行けない。そんなことでは正しい裁きができない」と家来などに諭していた。
にもかかわらず、天一坊が将軍様のご落胤であることは、信じまい信じまいとしている様子だった。偽物の証拠をつかむため、天一坊の生まれである紀州に出した使者が、本物であるとの証拠を持って帰ってきたときの失望と苦悩はことさらだった。
天一坊が本物だと認められた場合、相当に高い身分につくことになる。育ちの悪い天一坊が急に高い身分につくことは危険であり、天下に禍いを産むことになる。天下安寧の為とはいえ、名奉行と言われる自分が事実を曲げていいのか、天下を救うために法によらず一人の生命を奪うことが正しいのだろうか。
裁きの日。落胤であるとの証拠として、お墨附と御短刀が提出された。御奉行様は、それだけでは天一坊が本人だということにはならないとした。
天一坊は美しくも悲しげな顔で答えた。
「世に真に自分の親を知っている者がいるでしょうか。誰しも、生まれたときの記憶はなく、親の言葉を信じているにすぎません。不幸なことに、私にはそういった親はおらず、育ててくれた祖母が亡くなったときに親の名前を知りました。同時に、どうにかして一度お会いしたいと心から思いました。ただただ、真実の父に会いたいだけなのです。
思えば、私も父も不幸な人間です。父が名のあるものであるばかりに、御奉行様を間にして子を罪人のように取り扱わなければならない。我が子にすぐ会うわけにもいかない。父に覚えがあるのなら、会いたがっているはずに違いないのです。」
この愚かな、しかし真っ直ぐな天一坊の答えが、彼の運命を決してしまったのだった。
「天下を欺す大かたりめ」これが、御奉行様が最後に天一坊におっしゃったお言葉だった。そのお声には普段はない慄えが帯びていたのだった。
感想
司法の裁く側の苦悩を描いた短編。昭和後期の作品なので、書き言葉が現代的でなく読みづらいし、昔の作品だからと少し舐めて読んでいたが、想定以上の名作でびっくりしました。
いわゆる「子争い」のエピソードは知っていましたが、冤罪の可能性やその後のことは全く考えたことはなかったので、とても衝撃を受けました。法学を学ぶ人には思うところのあるエピソードなのでしょうか。
作者は検事も弁護士も経験している。その経験・視点から、有名なエピソードを再解釈して、裁く側の冤罪に対する後悔や苦悩とか、あるいは司法倫理といったものを考えさせてくれる。読んでみてほんとうによかったと思える作品でした。
以上です。