ただ独り歩め
私は最近、Netflixで観ている
『終末のワルキューレ』という作品の中で、
ちょいちょい出てくるワードが気になっていた。
犀の角のようにただ独り歩め
この言葉の意味を調べて、
はっとした。
これまで私はずっと、
外部にばかり答えや救いを求めていた。
誰か同じように苦しむ仲間が欲しくて。
同じように苦しんだ人生の先輩が欲しくて。
自分の人生の答えを求めて。
自分の人生の正解を教えてくれる誰かを求めて。
誰かが自分に教えてくれるんじゃないか
と思っていた。
誰かは答えをくれるんじゃないか
と思っていた。
自分なんかでは思い付きもしない、
画期的な起死回生の素敵アイデアを。
それできっと
これからは上手くいくはずだと思っていた。
でもそうやって外部に求めれば求めるほど、
自分の望む希望は遠ざかっていくように感じた。
焦って、枯渇して、求めて、答えがまた無くて、
またさらに焦って枯渇して。
もう訳も分からなくなって、
逃げるように、
逃げ場を求めて、
あっちこっち手当り次第手を出してみるけど、
全部空振りに終わって。
お世話になった恩師も親しい友人も、母でさえ、
自分を見放したように感じてしまって。
こんなに苦しんで、救いの一手を求めて
行動しているのに、
どうして皆は助けてくれないんだろう?
どうして私に手を差し伸べてくれないんだ。
って気持ちになっていた。
でも、
そもそも同じ地獄の釜で煮られる仲間を求める時点で
間違いだったんだ。
答えは自分ひとりで出すもの。
誰かに教えてもらうものじゃない。
地獄は一人ひとりでエンジョイするもの。
みんなヒントや、
各々が自分で出した答えは教えてくれるけど、
出題された問題が違うのに
私の答えなんて分かるこっちゃない。
むしろ、自分の思い通りにしようとして、
頼んでもいないのに外野から
あーだこーだ言ってくる奴の方がヤバい。
そんな奴が席を外してくれていて助かった。
傍にいてくれたみんなは見放してなんかいなくて、
いつも私が自分で答えを出すまで
見守ってくれていた。
だから、
自分に無意識にかけていた制限を全て取っ払って、
己の神を信じて、
自分の進みたい場所を決めて、
自分の意思だけで、
ただ独り黙って歩いていく。
それが、自分の生き方の答えを出すってことなんだと思う。
苦しいとき、
肩を貸してくれたり苦しみを共有できる
仲間はいない。
でもだからこそ、
どんな苦しみでも
このためなら
独りで背負い続け歩き続け、
場合によっては野垂れ死んでもいいと、
そう思えるほどの強い意思を抱ける事こそが、
本当の、自分の答えだと分かるのだ。
それを踏まえて、
私はいく。
私は表現者。
そう考えたら、
今まで無意識に蓋をしていたらしい
作りたいものや、やりたい事、
描きたいものなどが一気に溢れてきて、
興奮して朝まで眠れなくなった。
表現者として生きたいから、
世間一般のマトモな生き方から外れたって、
もうどうだっていい。
将来どうなっても、
表現者として生きたい自分を押し殺して
時間を潰してしまうくらいなら、
その結果、たとえ寿命が短くなっても
表現者として生きた自分を
選びたい。
どうせ生まれたからには、
自分の好きなようにやらせてもらう。
自分が歩きたい道を、道はなくとも、
犀の角のようにただ独り歩めよ。
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↓↓↓ 心情の変化が分かる。
ちなみに、
天上天下唯我独尊
という釈迦の有名な言葉だけど、
貴方はこの世に貴方しかいない尊い生命なのだから、
尊く生きましょう
的な意味らしい。
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