他人に教えること
村上春樹さんのエッセイを読んでいると上記の言葉がありました。トライアスロンに向けた水泳のフォーム改良のため、水泳コーチ探しに四苦八苦された経験による気づきのようです。
まさにランニング、身体のコンディショニング指導をする自分としては深く考えさせられる一文でもありました。
インターネット、SNSと色んな情報が溢れる時代になり、ランニングにも〇〇のために〇〇をやる、のように「何をやる」が先行して出回っているように感じます。多くのものが、ある特定の部分だけを切り抜いた場合、何事もメリットがあるのように伝えるのは難しくありません。
大事なのは部分のメリットではなく、トータルでの取り組みがいい方向に働くかどうかです。このトータルの面は練習だけではなく、相手の生活も含めたトータルです。
序文にあるように、相手を見て、相手の能力や傾向に合わせて、がまずは基準となります。指導をする上で専門の知識はもちろん必要です。ただ指導の場で知識の披露が最優先ではありません。
指導の場で一番大事なことはやはり相手を見る力であって、そこから能力や傾向を知り、初めて知識の使いどころがあるのだと思います。相手の生活感、現在の能力、身体の傾向、その点をトータルで考慮して相手が実用可能な形に落とし込めるように自分の言葉で語る。これも反復で磨いていくしかありません。
まだ始めたばかりのころに知識を詰め込み、披露することにエネルギーを注いだ時期がありました。相手が実践可能かどうかは全く考慮せずに、何をすればいいのかばかりを伝えた経験もあります。
今でも気がつけば自分で何を言ってるのかと思うようなこともあり、相手の様子を見ればこれは伝わってないなと感じることはしばしばあります。
ドイツの哲学者ショーペン・ハウアーは、たくさんの旅行案内書を見つめてその土地に詳しくなった人とその土地に実際に住んでいたことがある人の例えを用い、後者のみが語るべきポイントを心得てるということを述べています。
前者は土地の事情についての知識はバラバラで、明確でも綿密でもないと。
相手をよく見ずに、または相手なしの状態で、こうした方がいいとトレーニングを語るのは、旅行案内所でしか知らない場所の旅行案内をしているようなものかもしれません。
特に新しく学んだことを伝えよう、教えようとする時ほど、決まったことを、決まった手順で、決まった言葉になりがちになっている自分に気づけます。気づけた時はまだあんまり理解していないんだなと分かるだけいいのですが。
相手を正しく見て、理解する力。教えることの一番大事な部分にようやく気づき始めてきたこの頃です。