『イスラーム帝国のジハード』小杉泰著 書評
<概要>
ジハードはもちろん、ジハードだけでなくイスラーム教とイスラーム社会、イスラーム国家についての歴史の概要と現代につながるイスラーム教の思想的立ち位置を紹介するイスラーム思想史専門家による「興亡の世界史」シリーズの著作。
<コメント>
こちらも国際政治学者の福富満久先生紹介の本。引き続き通読。
■ジハードについて
「ジハード」というと、「聖戦」ということで我々日本人から見ると「イスラームのためにテロリストが自爆テロでなくなって天国に行く」という程度のイメージだと思いますが、本書によれば、自爆テロはジハードのうちの「剣のジハード」を都合よく解釈して、過激派が流用しているだけだ、ということのよう。
ジハードに関しては以下書評でも紹介しましたが、おおよそ本書著者の小杉泰氏と以下著作『イスラーム基礎講座』の著者渥美堅持氏の見解は同じように思われます。
ただし、本書の場合は「剣のジハード」についてより詳しく紹介し、今の過激派が勝手に「剣のジハード」と称してテロを仕掛けるのは、イスラーム帝国がオスマン朝を最後に消滅してしまったので「剣のジハード」そのものが制御不能に陥ってしまったから。
ムハンマドからオスマンに至るまで、イスラーム帝国が存在した時代では「剣のジハード」は帝国の政治権力者たるカリフ(イスラーム共同体における政治的リーダー:アラビア語では「ハリファ」)が命じるものであって、不法地帯に跋扈するテロリストのリーダーが命じるものではありませんでした。
本来の「剣のジハード」は、イスラーム帝国含むイスラーム共同体を防衛するための軍事的手段だったはずですが、アメリカの軍事責任者が「国防長官」と呼ばれるのと一緒で、防衛手段といっても他共同体を侵略するためのツールとして活用されたのはいうまでもありません。
■イスラーム教は、帝国拡大に遅れ300年かけて拡大
最後の正統カリフ、アリーが暗殺され(661年)、ウマイヤ家の血統による王朝、ウマイヤ朝(アラブ帝国)が誕生。
ウマイヤ朝が征服した地のほとんどは異教徒たちの住む世界ではあるものの、被征服者の異教徒にイスラーム教への改宗を強制するのではなく、異教徒の地域はそのまま異教徒として共存(その代わり人頭税ジャズヤを徴収)。
とはいえ、イスラーム帝国が支配した地域の大半の住民は、今ではイスラーム教徒(ムスリム)となっています。
では、一体帝国占領地において、どのようにイスラーム教が広まったのか?
米国の歴史学者バレットが、改宗の広がり具合を人名辞典を史料に研究。この結果、
有名な「コーランか剣か」というのは、より正確には「改宗か、税か、剣か」という三択。
現実的には異教徒は、このうち「税を主に選択した」ということでしょう。
ちなみに「剣」を選んだ場合は、「領地没収→殺害又は捕虜」という結末。
「改宗」を選んだ場合は、アラブ優先主義のウマイヤ朝では改宗しても差別され、イスラーム教徒全員を平等に扱ったアッバース朝では、他のムスリムと同等の権威が与えられた。
本来「ムスリムは神のもとに平等」なので、信仰の早い遅いで差別すること自体(マワーリー問題という)が教えに反するわけで、アッバース朝になってやっと真っ当なイスラーム共同体ウンマが誕生したということかもしれません。
基本的にムスリムになれば人頭税の回避含めて、あらゆる面で生活上向上するでしょうから、アッバース朝になって一気に改宗者も増大したのでしょう。
■ギリシア哲学を取り込んだ「アッバース朝」
アッバース朝では、イスラーム教への改宗の進展、異教徒を共存させる仕組みの確立、版図拡大の終了などによって安定した社会に。
この結果、体制維持のための大義名分が「学問」の分野で盛んになるのは、中国(儒教を体系化した朱子学)や西洋(キリスト教を体系化したスコラ学)と同じ現象。
イスラーム帝国の場合は、ギリシア哲学の理性的思考方法をイスラーム教に取り込んだ「ムウタズィラ学派」が第7代カリフ、マアムーン(786ー833)によって公認化。著者は、
とし、否定的に論じています。
キリスト教の場合は、アリストテレスの「不動の動者」みたいな概念が、
唯一神としての「神」の概念と親和性が高く、スコラ学として体系化(以下参照)。
このスコラ学自体も、十字軍がアッバース朝(の領土だったエルサレム)を侵略した際に、アッバース朝からギリシア哲学を逆輸入したことで誕生したというのも、歴史のつながりが実感できて興味深い内容でした。
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