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「京都の風土」なぜ金閣は燃えたのか?『金閣炎上』


<概要>

金閣寺を放火した犯人の修行僧、林養賢が、犯罪を犯すに至るその背景を出生から親子関係から、師弟関係まで精密な取材をもとに描いた小説的なスタイルをとったノンフィクション。

慈照寺金閣(2024年2月撮影)

<コメント>

梅原猛著『京都発見』で、金閣寺の放火に関しては、三島由紀夫の『金閣寺』よりも水上勉の『金閣炎上』を読むべし、と書いてあったので、遅ればせながらエジプトからの帰国後に読了。

本書は、金閣炎上に至るその要因もとても興味深いのですが、むしろ、昭和初期から戦後にかけての京都の寺院や丹波地方の社会慣習が細部にわたって書き記されていて、この辺りも素晴らしかった。

同上

⒈なぜ林養賢は、金閣を焼いたのか?

金閣寺は、室町幕府が建立した臨済宗相国寺の塔頭で、いわゆる禅寺です。

ところが足利義満の別荘をそのまま禅寺にしてしまったために、禅寺には不似合いな「金閣」という豪華絢爛な建物があるという矛盾を孕んだ寺なのです。

そして戦前から金閣を目当てにする観光客の拝観料で経済が成り立っていた金閣寺は、その拝観料を管理する事務方(在俗人)が力を持っており、その事務方が徒弟の生活する庫裏にしばしば入り込んで、いちいち彼らの日常生活に口出しします。

一方で、往時(禅寺の住職のこと)の慈海師は、寺内管理を事務方にまかせて、その潤沢な拝観料を元手に毎晩、酒を飲んで楽しんでいるという、聖俗があざなえる縄のように入り組んだ、ダブスタ(ダブルスタンダード)全開のお寺なのです。

同上

犯人の林養賢含む修行僧の方は、禅の修行のためにそのおこぼれにもありつけず、学校に行かせるといいつつ、何十年前の虫の食った穴だらけの昔の学生服を着させられるなど、その日暮らしの貧乏人のような最低限の生活を強いられます。

そんな禅寺に入る前の林養賢は、舞鶴の端っこの端っこの大浦半島にある成生という集落の寺「西徳寺」の住職の息子として生まれますが、父親は肺結核で早死にし、母親の志満子は、感情過多で近隣から疎まれ、そして本人は吃音症になやむ辛い少年時代を過ごします。

そんな少年が、亡くなった父親のつてで金閣寺に入り、修行をすればするほど金閣寺の矛盾に感情を揺さぶられ、吃音症もあって金閣寺の住職も難しいという将来への絶望感もあって、カネまみれの金閣寺とその往時慈海師の象徴である金閣を燃やしてそのまま自殺しようとしたのです。

タテマエとホンネの世界のなかで苦しんだ放火犯は、田舎に帰っても母親は西徳寺を追い出されて彼自身もう帰るところもなかったという切羽詰まった状況の中で金閣放火に至った、というのが著者の推測した金閣炎上の要因ですが、なかなか説得力ある説ではないかと思います。

⒉丹波の興味深い社会慣習

⑴残存する穢れ忌避の概念

やはり丹波でも穢れ忌避の風習は残っていて、女性がお産をするときは、その血で集落が穢れないよう、部落が共同で建てた産屋の中で妊婦は食事をし、陣痛を迎え、梁から下げられた力綱を頼りに孤独に分娩するのが当時の丹波の風習。

妊婦を不浄の身として忌む風習で、漁業に携わる若狭、与謝あたりの村ならどこでもある話だったといいます。

妊婦は産み月が来ると産小屋へ居を移し、家のものとは別火で食事。分娩を終えても五日は「お間あがり?」できず、家族の仲間入りは許されなかったそう。

丹後地方:間人港(2023年10月撮影)

ネットで調べると産屋の研究は民俗学の世界ではかなりあって、穢れ説のほか、聖域説もあって、全国的には一概に穢れ忌避だけではないようです。

しかしながら、これまで私が知った範囲では、明らかに穢れ忌避という日本人ならではの概念は相当強烈だったように感じます。女性が生理のときも産屋を使っていたという地方もあります

少なくともすべてではないにしろ、近代以前の日本では穢れ忌避の概念は相当に深く広く浸透していたように思います(以下参照)。

⑵多子化対策としての産屋

軍国主義としての当時の日本は、国家として多産を望んでいたために堕胎は犯罪。しかし貧農漁民の世界では、産屋で子供が生まれたら、子供を育てる能力のない家庭では、産屋で間引きするのは彼ら彼女らが生き残っていくための重要な手段のひとつだったといいます。

子どもの間引きは、人類が原始狩猟時代から持っていた風習で、明らかに赤ちゃんが不健康な場合は、その場で「処理した」といいますから、近代以前まで、そのような風習は日本列島においても残存していたということでしょう。

丹波亀山城

⒊明治時代に転換した仏教の姿

明治維新政府は、新しい宗教「神道」を国教化すべく、神仏分離で仏教を冷遇しましたが、さらに仏教の勢力をそぐため、浄土真宗だけの慣習であった坊主の妻帯を他の宗派にも認めます。

江戸時代まで禅宗では、その法燈を受けた教団僧は、女犯(女性との性行為)は禁じていましたので当然、寺院に妻子がいません。住職に内緒の愛人がいても寺外に囲うのが慣習で、表立って女犯戒を犯すようなことは許されていませんでした。

唯一の例外は室町時代に生きた一休禅師。

明治時代以降は、政府の了承にしたがって妻帯する坊主もいれば、これまでの戒律を護って妻帯しない坊主もいたといいますから、今のように寺の住職が世襲するという慣習は、浄土真宗以外は、明治以降の新しい伝統

政府の方針に従った禅宗の寺院では、住職が逝去すると、その妻子は寺を出る必要があります。新たな住職を迎えるにあたって前住職の妻子がいては寺側も困ってしまうからです。そうするとその妻子は路頭に迷い行き場を失って貧困への道を突き進みます。

それでは現代のお寺ではどうなっているのか、は興味深いところです。

そうはいっても原始仏教は出家した人は。当然みな独身ですから、時代に合わせて宗教の姿が変わっていくのは、世界と同じく日本でも例にもれず、といったところか。

以上のほか、林養賢の生まれた西徳寺の親寺ともいうべき隣村の海臨寺の住職睦悠は、

空襲で金閣が焼けなかったのはマッカーサーが昔京都に住んでいて金閣を気に入って「あそこだけは焼くな」と指示した

ハードカバー版の本書145頁

と林養賢に語っているなどは、やはり当時は、文化遺産で京都空襲が回避されたという間違った説は生きていたのだと思います(京都は原爆投下候補都市だったので空襲されなかったというのが史実)。

などなど、金閣炎上に至るそのプロセスもさることながら、本書の時代描写も大変興味深い内容となっているので、とても充実した読後感でした。


*写真:慈照寺金閣(2024年2月撮影)


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