「反穀物の人類史」 文明誕生の新説
<概要>
初期国家発生の要因とその目的に加え、AD1600年代までのメジャーな存在だった「不在のリヴァイアサン」(=遊牧国家含めた無国家民)と国家の並行進化について紹介するなど、定説をことごとく覆す、驚きの書籍(2019年12月出版)。
<コメント>
2年前に出版されて話題になっていた本書、やっと通読。歴史を地球科学的・考古学的・生物学的・人類学的視点(=ディープヒストリー)から組み直すことで、新説を大量生産。いっぺんに全部紹介すると大変なことになるので、分割して展開したいと思います。
まずは文明の発祥にまつわる新説。
■文明誕生の新説
本書で一番話題になったのは、これまでの文明発祥の定説を覆したから。著者曰く
確か私が高校で習った世界史(1980年代)では、
という流れで記憶しています。2017年出版の出口治明著「人類5000年史」でも
とのことで、私が勉強した学生時代の史実とほぼ同じ。農耕と定住は同時期で、そのすぐ後に国家が誕生するという説。
ところが著者の説では、メソポタミア文明の事例で整理すると以下の通り(西暦は目安)。
BC12000年:定住の断片的な証拠 (人口200万-400万人)
BC 9000年
〜7000年:主要な基礎作物栽培の証拠 (同500万人)
BC 3100年:城壁と領土を有する前期国家の誕生 (同2500万人)
このように、定住→農耕に至るまで4000年かかり、農耕が始まって初期国家ができるまで、さらに6000年−4000年費やしているという、これまでの定説とは全く異なる歴史が紹介されています。つまりここで著者がいいたいのは、■農耕しなくても人間は定住するし、■農耕したからといって余剰生産物が生まれて国家が生まれるわけではない、ということ。
■農耕しなくても人間は定住する
われわれ日本人は、日本列島の縄文時代早期(BC9500年〜BC5000年)を学校で勉強するので「人間は農耕しなくても定住する」のは常識として知っています(「縄文時代の不思議と謎」参照)。
ところが、世界的には縄文時代はレアケースらしく、ふつう定住は弥生時代パターンと同じで農耕とセットになっており、それまでの原始狩猟採集社会は、移動しながら生活するという説が一般的。
狩猟採集社会では、文字通り野生の鳥獣類を狩り、木の実などを採集して生き延びるのですが、同じ場所に止まっていると食料資源が枯渇してしまうので、移動しながら生活。
「同じ場所に定住しても野生の食料が枯渇しない」という条件に当てはまる土地が世界中探しても珍しいからかもしれません。本書ではその珍しい場所として現イラクのチグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域=肥沃な三日月地帯(メソポタミア文明発祥の地)を紹介しています。
これまでの定説と違い、肥沃な三日月地帯は乾燥地ではなく、チグリス・ユーフラテス川から豊かな水が溢れる湿地帯となって、この湿地帯が生み出す多種多様な植物と、湿地帯に水を求めて集まる鳥獣類を狩猟採集するために人が集まって定住したというのです(BC11000年ごろ)。
これは縄文時代同様「定住型狩猟採集社会」で、定住したからといって農耕が始まるわけではありません。
そもそも農耕は(牧畜も)著者のいう通り、狩猟採集と比較して非常に負荷のかかる作業。土を耕し、種をまき、灌漑し、育つまでずっと雑草や野生動物などに荒らされないよう管理する必要があります(家畜の飼育も同じく面倒臭い)。
ところが野生であれば、育ったものをそのまま収穫すれば良いし、獲物は水辺にやってくる鳥や獣を狩ればよい。
このように農耕・牧畜は「重労働」で、狩猟採集は「軽労働」。実際狩猟採集の労働時間は1日2時間〜5時間だったといいます。本書でも
つまり、同じ場所で作物が栽培して育つから定住したのではなく、たまたまその場所が食糧豊富な場所だったので定住した、ということ。
■なぜ食料が豊富な肥沃な三日月地帯で農耕が始まったのか?
それでは、なぜ狩猟採集に比べて手間のかかる農耕をわざわざ始めたのか?
これまでは鳥獣や食用植物が枯渇したからではないか、という説が有力だったらしいのですが、どうやら肥沃な三角地帯では、食料資源は相変わらず豊富だったらしいから、著者は否定。
そして残念ながら現時点では仮説に値する説は、未だ登場していないらしい。ただし、定住民のオプションとして、種を撒いたら勝手に育ってしまったのかもしれないし、人間が定住する周辺では食料が豊富なので、人間を敵視しない動物、つまりヒツジやヤギ、ブタなど(イヌやネズミも)が自然に集まってきて、そのまま人間と一緒に定住したのかもしれません。
以上のように農耕&牧畜の登場要因は未だ定説はないものの、農耕・牧畜が広まったのは「人口圧が高まった」ことが要因だというのは明確。これも定説としての寒冷化=ヤンガードリアスイベント(BC10500年-9600年)の影響を否定。
一般的な狩猟採集社会は定住しないので、基本的に移動に耐えられない4歳児未満の子供は母と1対1にならざるを得ず、それ以上は育てられないので意図的に出産制限します(余計に生まれてしまったら即殺害、または育児放棄)。また定住によって食事が赤身肉中心から穀物中心に変わることで女性の出産可能期間が長期化し、排卵も安定したと言います。
一方、定住社会は集住による疫病流行などで狩猟採集社会よりも多死社会ではあるものの(実際に疫病で集団が壊滅することもしばしばあったらしい)、定住化によって出産制限する必要がなくなった結果、定住社会は狩猟採集社会よりも繁殖率が高く人口圧が高まってしまったのです。
この結果、人口増加で狩猟採集だけでは資源が枯渇し、致し方なく狩猟採集と並行して行っていた農耕の比重を増やさざるを得ず、農耕を主軸にした社会がメインになったとしています。
■農耕してもすぐに余剰作物は生産されなかった
定住農耕社会(本書では「ドムス」と呼称)は、補助的な狩猟採集に加えて、簡単に作物が収穫可能な氾濫農法(※)含め、多様な食料獲得によって4000年間もの長い間、継続。
我々現代人と違ってドムスの住人は、食べていくために働いて満腹になれば、それ以上働くモチベーションが生まれず、余剰生産物は存在しなかったらしい。食料保存も当時から肉や魚を塩漬けにしたり、燻ったり、木の実を土に埋めて長期保存するなどの工夫はしていたようですが、農耕や牧畜という至って労の多いことまでして、余剰農産物を生産することはなかったのです。
ロシアの農業経済学者A・V・チャヤーノフ曰く
それではなぜ、農耕&牧畜が始まってから(著者の表現では「飼い馴らし」)、4000年後に国家が誕生したのでしょうか?ヒントは、
ということで、次回に続きます。
*写真:千葉県柏市藤ヶ谷の田園風景(2021年秋撮影)