メランコリストの行き先「新しい哲学の教科書」
現代に生きる我々はメランコリスト。
近代以前は「信仰の時代」、近代は「自由の時代」、ポストモダンは「ニヒリズムの時代」、そして今は「メランコリー」の時代。
メランコリーとは、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態。ポストモダン以後、我々は無化すべき対象を見つけることができない。その気になればそれなりに人生を楽しむこともできるが、同時に、ある種の生き難さのようなものも感じている。ならば、現代を生きる私たちの実存感覚はポストモダン世代とは異なるもの。
「何もしたいわけではないが、何もしたくないわけでもない」
という奇妙な欲望、そんな欲望を持つ我々を、著者:岩内章太郎は「メランコリスト」と呼んでいます。
例えば、今話題の現代実在論者「マルクス・ガブリエル」の「世界はなぜ存在しないのか」。
世界は存在せず、無数の意味の場があって、それは私の解釈的には無数の虚構があって、どの虚構を我々は選択するのか?ということ。
ガブリエルは、私の考える第1の虚構(社会の虚構)に関しては「哲学的考察は棚上げにしている」と著者は言います。
というのも著者曰く「私たちはすでに民主主義、人権、表現の自由、男女の平等といった基本的な理念(竹田青嗣先生のいう近代市民社会の原理)については普遍的合意に達した。実際に私たちは教育を通じて学び、それらの理念の哲学的根拠は言えないにしても、誰もが自由な人格として対等であり、基本的人権を有していることについては疑っていない。それらは長い歴史の中で対立と闘争、抑圧と差別、暴力と抵抗を繰り返しながら、やっと獲得された人類の英知。それらの原理的根拠を今根底から再考するのは、はっきり言ってリスクでしかなく、哲学の努力はそれらをどのように実現していくかに向けられるべき」とガブリエルの意図を解釈。そして私の考えている第2の虚構「個人の虚構」に関しては、情動の反復が意味を創り出すのだから、自分の情動をよく聴くことからはじめようと提案している。何らかの作品を見るだけではなく、情動のゆらめきそれ自体に耳をすまる。
なるほど、個人の虚構は、情動の反復から生まれるわけだから、自分は本当のところ何に興味や関心を持っているのか、ちゃんと自分と向き合って聴いてみようということ。
我々メランコリストの行き先(私にとっては個人の虚構)としての著者の提言です。
*写真:ニュージーランド テカポ湖