「京都の風土」院政と神仏習合の熊野詣
天皇家が「院政」という形で政治権力を藤原摂関家から奪還したのは平安後期。この時代の痕跡は、なんといっても神仏習合の象徴「熊野権現」を祀った熊野三山と修験の世界です。
170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位して以降、藤原氏の影響力が衰えて権力が再び天皇家に戻ります。そして白河上皇より院政政治が始まります。
⒈熊野三山検校職「増誉」
この院政時代、日本古来の宗教「修験」と深く結びついた天台密教は、天台宗寺門派の円珍門下が熊野三山検校職(京都における熊野三山の統括職)を務めることになります。
寺門派の本拠地である比叡山の麓の「三井寺」も、大峰、葛城、熊野と結びつき、修験道を大いに発展させるのです(修験の詳細は以下参照」)。
三井寺の僧「増誉」(1032ー1116)は、京都盆地内に聖護院を建立。
増誉は平安時代末期、権大納言藤原経資の息子で、大峰山や葛城山で苦行を重ね、熊野詣を13度もして、白河天皇と堀河天皇の護持僧を務めた僧で、1090年に白河天皇が熊野詣をした時にその先達(案内役)を務め、上皇によって熊野三山検校職を与えられたのです。
なお、密教は「最澄→円仁」に始まる天台密教(台密→本山派)と、「空海」に始まる真言密教(東密→当山派)があります。双方とも縄文系の日本古来の修験と深く結びつき日本独自の密教を確立。
熊野の北に位置する起伏に富んだ険路難所である大峰山を通って、吉野金峰山に出る道が修験者の修行の道。この熊野から大峰山、吉野への道を「順峰」といい、本山派といわれる「三井寺」や「聖護院」に属する天台密教系の山伏の修行の道となります。
一方で、当山派と言われる「醍醐寺」を本山とする真言宗系の山伏は吉野から大峰山、熊野へと逆の道を修行の道とします。これを「逆峰」といいます。
つまり「順峰」が台密(本山派)、「逆峰」が東密(当山派)。
中国直輸入の仏教から離れ、仏教が修験と融合することで日本独自の密教としての神仏習合が完成します。これに伴い、修験を見習った熊野詣が上皇たちのメイン行事に(神仏習合の詳細は以下参照)。
⒉熊野詣
梅原によれば、熊野詣が907年の宇多上皇に始まり、白河上皇(9回)→鳥羽上皇(21回)→後白河上皇(34回)→後鳥羽上皇(28回)と、院政時代に熊野詣が盛んになります。
この時代の上皇は、これまでの天皇という「権威」に摂関家から奪取した「権力」を集中させたことで、「権威」と「権力」と「富」のすべてを手に入れ、この世の春を謳歌するのです。
一方で、すべてを手に入れてしまった専制君主と腹を割って話せる人もなく、上皇たちは独裁者ならではの孤独と不安を抱えます。
その不安を埋め合わせるために死と再生の地、熊野への詣を繰り返したのではないか、と梅原は推測。
摂関家時代の末法思想をきっかけに興隆した来世の浄土の希求はもちろん、現世のすべてを手に入れた上皇たちが、現実世界をそのまま受け入れるための天台本覚論をよりどころにしたらしい。
天台本覚論とは天台の教説に真言の教義が混じった教えで、まさに現世利益を全肯定する教えなので同じ仏教でも浄土教とは真逆の教え。
それは日本の基層文化「縄文」の価値観を取り入れた「山川草木、悉皆成仏」という言葉に象徴されるように実世界を諸法実相、三諦円融の世界としてそのまま受け入れる思想(梅原猛著『日本の原郷 熊野』62頁より)。
上皇たちは、縄文が育んだ山や海の果てにある死の国「熊野」で、この世の穢れを浄化すべく、熊野詣を習慣化。そして権力が鎌倉幕府に移ると同時に上皇による熊野詣はじょじょに下火に(「熊野詣」の詳細については以下参照)。
このような院政時代の熊野詣について、新熊野神社では後白河上皇が1160年に上皇自身が移植したといわれる楠木「お腹の神様」があるほか、国宝の宝庫ともいうべき三十三間堂や、非公開の聖護院にその痕跡をみることができます。
⒊三十三間堂建立のいわれ
後白河法皇が「なぜ三十三間堂を建立したのか」は大変面白いエピソードです。
京都にある三十三間堂を後白河法皇に建てさせたのは「因幡堂の薬師如来」とされています。
頭痛に悩まされていた後白河法皇は参詣した熊野権現からここ因幡堂の薬師如来に祈るようお告げを受けたので、因幡堂を参詣したところ夢のお告げで
と告げられます。
そこで人を遣わして首を探し当てさせ、その首を観音の頭部に籠め、三十三間堂を建てそのお堂を蓮華王院と名付け、このことで法皇の頭痛は治ったというのです。
⒋権力を喪った後鳥羽上皇と水無瀬神宮
院政時代の最後を飾るのが後鳥羽上皇。
鎌倉時代に入って既に政治権力は北条家に奪われてしまいましたが、最後は隠岐で散った後鳥羽上皇の痕跡が水無瀬神宮です。水無瀬神宮はかつての後鳥羽上皇の離宮。
梅原が、後鳥羽上皇に仕えた水無瀬信成から二十九代目の子孫で宮司の「水無瀬忠茂」氏に聞いたところ、水無瀬家は承久の乱以後ずっと先祖代々、ここの後鳥羽院の御影を祀る御影堂を建てて、この水無瀬神宮を守ってきたそうです。
そして時代は下り、建武の中興の政治に挫折した後醍醐天皇は吉野へ移られますが、代わって天下をとった北朝方もあつくこの水無瀬神宮の御影堂を尊崇したそうです。
御影堂に祀られる後鳥羽上皇の霊がどちらの味方につくかに、南北朝の分かれ目があると考えられたからとのこと。たぶん悲運の後鳥羽上皇は「怨霊」として当時、恐れられていたのではないでしょう。
水無瀬神宮も「怨霊が神格化して神社になる」形で、菅原道真を祀る「天満宮」、早良親王を祭る「崇道神社」と同様、神道本来の神社の姿の一つともいえます。
*写真:熊野本宮 白河上皇の御歌とともに
「さきにほふ花のけしきを見るからに神の心ぞそらにしらるる」