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廃仏毀釈にみる「薩摩藩」の特異性

薩摩藩といえば、薩長同盟で明治維新政府の中心的役割を果たした藩ですが、廃仏毀釈については、激烈です。

薩摩藩の廃仏毀釈は、明治政府の本来の目的である「神仏分離」ではなく「徹底した仏教排除」

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(鹿児島県 桜島 2014年12月、以下同様)

「仏教抹殺」著者の鵜飼氏によれば、調査のために二度ほど鹿児島県を訪れたものの、仏教関連の一次史料(遺跡や文物)がほとんどなく、県や市の教育委員会などに廃仏毀釈に関する専門家もいない。わずか数人の郷土史家が細々と研究を続けている状況で、調査した各地域の中でも最も難航したそうです。

それでは、どれだけ激烈だったのでしょうか?

■お寺は全廃

島津家の菩提寺である福昌寺は、往時は僧侶1,500人を抱えるほどの大寺院でした。もともと島津家は熱心な仏教徒で

戦国時代、勇猛でその名を轟かせた島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の親でもある十五代当主貴久は「仏を信ぜざるものは我が子孫にあらず」との家訓を定めていたほど(「仏教抹殺」59頁)。

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(仙厳園 島津義久の甲冑)

ところが、福昌寺は島津家自身によって1869年(明治2年)廃寺され、幕末に1,000以上あった薩摩藩のお寺も、一つ残らず廃寺。2,946人いた僧侶も漏れなく還俗。伽藍から仏像から何から、みんな『ちんぐわら(標準語で「徹底的に」)』破壊されてしまいました。破壊の苛烈さは、もしかしたら中共の文革以上かもしれません。

なので、江戸時代以前のお寺は一部復興したものの、観光資源になりうる文化財は廃仏毀釈で壊滅(感応寺の本尊など、ごく一部が残存)。そして今のお寺の多くは、薩摩藩が室町時代より300年間禁止し続けたという浄土真宗(県内シェア70%)。この結果、487軒まで回復したそうです。

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(仙厳園。ここは殿様の庭園=仏教施設ではないので、破却対象外だったのか)

■江戸時代以前の戸籍は喪失

江戸時代の戸籍の代わりだった檀家制度に基づく過去帳もお寺全廃で逸失してしまった為、鹿児島県人は江戸時代以前の自分のルーツを調べることができません。

■島津家代々のお墓は「学校校舎裏」

菩提寺福昌寺を、斉彬&久光自ら廃寺した薩摩藩主島津家の墓所は、なんと玉瀧中学校・高校の校舎裏にあります。これは福昌寺跡地だから。これは斉彬も藩主でなかった久光のお墓も。しかも久光のお墓は一番デカいらしい。鹿児島県人はこの事実を知っているのでしょうか?

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(Googleマップより。校舎の裏にひっそりと墓所がある)

■破壊した梵鐘などは贋金(ニセガネ)の原料に

島津斉彬の側近だった一木四郎らは、お寺の梵鐘や銅像などを融解し、兵器製造のほか、天保銭の原料にもしたらしい。琉球で流通させる琉球通宝を100万両鋳造する許可を幕府にもらった上で、琉球通宝は10万両しか鋳造せず、残りは密かに天保通報の贋金を鋳造。

■小松帯刀の廃仏毀釈

神仏分離令の情報を聞き付けた小松帯刀は、彼の妻お千賀が熱心な仏教徒であったことから、同情報を妻に伝え、小松家菩提寺:園林寺(日置市)にあった本尊「阿弥陀仏」を、当時の住職に懇願して譲り受け、小松家別邸の持仏堂に保管したために助かったそう(今は、日置市清浄寺の本尊)。

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(鹿児島市内にある、小松帯刀の銅像)

【それでは、なぜ薩摩藩では、ここまで廃仏毀釈が徹底されたのでしょうか?】
先述した通り、明治政府の本来の目的は神道国教化のための神仏分離であって、廃仏ではありません。

ところが薩摩藩は、明治政府の神仏分離に先んじ、仏教撲滅そのものを目的として、幕末より徹底的に仏教を排除したのです。これには薩摩藩ならではの事情があったようです。

①斉彬&久光の仏教嫌い

斉彬は曽祖父、第八代藩主島津重豪の影響で、国学・蘭学に傾倒していたため、仏教を嫌悪。先行する水戸藩を見習い、積極的に仏教を排除すべく斉彬時代=寛文年間より寺を破壊し始めます。

②軍事力強化のため

斉彬の主導する西洋化政策は、西洋に侵略されないための国力・軍事力強化策。なので西洋式兵器の原料となる金属を豊富に含む寺の資産(銅鐘など)は、格好の餌食となったのです。


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(仙厳園に保存されていた大砲。これも寺院の金属類を流用?)

③薩摩藩独自の外城制度(一村一城)

薩摩藩では、武士のシェアが26.4%(全国平均5.7%)と圧倒的に高く、武士は一村一城の村を仕切るあるじとして半農半武の生活を送っていました。

したがって武士階級は、民衆を完全に掌握しており、藩主の意向が上位下達の体制。藩主の廃仏運動が現場の隅々まで徹底できたのです(鹿児島国際大学中村明蔵名誉教授)。

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[知覧市 武家屋敷街。沖縄の民家みたいにひんぷん(入口の衝立)があった!]

④脆弱な檀家制度

武士が強い一方、逆に江戸幕府の政策により導入された寺院主導による檀家制度は脆弱で、他藩では寺院で行われていた寺子屋教育もあまり普及せず。

代わって郷中教育(※)によって子供たちを教育していたため、教育面でも寺院の影響力は低かった。つまり薩摩隼人は、寺院に対する愛着があまりなかった。

※郷中(ごじゅう)教育
先輩が後輩を指導する武家教育のシステム。厳格な上下関係のもとで武芸、道徳などの教育が行われ、西郷隆盛や大久保利通は御中教育で鍛え上げられたおかげで大成したとの評価もある(「仏教抹殺」71頁)。

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(西郷隆盛が設立した私学校跡。これも御中教育の一環だったのか?)

以上、薩摩藩の特異性は、日本の明治維新の一旦を担った一方で、藩内に大きな傷跡を残したともいえるのです。

確かに2014年に観光した時は、なぜかは不明ですが、鹿児島は外国みたいな印象を受けたのです。多様性重視の時代にあっては、薩摩藩みたいに独自性を発揮する地方が、もっと活躍する時代になるといいのかもしれません(もちろん仏教抹殺みたいな原理主義は論外)。

*写真:鹿児島市 仙厳園に展示されていた島津義弘公の甲冑

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