子供は小さくても世界を見ている(昔のマレーシアから始まった思考の原点)
このコロナ禍で時間がポッカリとできたこともあるが(その割には日々が飛ぶように過ぎていくが)、特に早朝目が覚めると、これまでの人生では有り得ないほどに、過去のいろいろなことが思い出される。気味の悪いほどに。
ひょっとして、私は年内にあの世からお迎えが来るんじゃないか?というぐらい、日中でも何かをきっかけに頭から記憶の風船がブワッと膨らんでくる。メモを取っていないので、どうしても頭から離れず書いておきたいようなことだけ書くことにはなると思うが、基本的にはこの自然発生的な記憶と、過去の写真などを整理しながら思い出して書き留めておきたいことを綴っていきたいとは考えている。
自分の記憶は2歳の時まで遡ることができる。といっても、豊島園で見学したタータンチェックのスカートに高帽を被ったスコットランド部隊の演奏と、同じ園内で指にゴムをかけてパンパン叩くと中に入った砂が音をして楽しい、赤くてマーブル模様の大きな風船を思い出すだけなのだが。楽しかったから印象に残っているのだろうが、あれがいつだったのだろうと思って昔のアルバムを見たら2歳の時だったのを知って驚いたのだった。何しろ記憶力にはとんと自信がない自分なので、遡ってもせいぜい3歳だろうと想像していただけに。
幼稚園時代はやんちゃ者で気が強く、男の子を口で攻撃して泣かせるような怖いもの知らずだった(いやそうでもない。恐らく明治生まれだった近所の友達のお爺さんが、着物姿で火鉢を前に煙管をくゆらせ和室でじっとしている様子があまりに厳格で、いつもその姿を見るたびに震え上がっていた)。
カトリックの幼稚園に通っていたとは思えないほど聞かん坊で、気に入らないことがあるとダダを捏ねて人通りの多い道であろうが仰向けに大の字に寝そべって母親に抗議していたらしい(なんとなく、自分でもうっすらと覚えているような気がする)。家では大声で賛美歌を歌い、食事の時には小さな丸いちゃぶ台(星飛雄馬のお父さん一徹がよくひっくり返すようなアレより小さかった)を前に正座し、手を合わせてお祈りをしてから食べ始めた。出された食事は残さず全部食べる、は、その時から身に染み付いているのだろう。食前の祈りの習慣は、東京での幼稚園生活を終えた後は自然消滅したように思う。何しろお祈りしていたのは家族で私だけだったから。
天真爛漫に育ったといえばそうなのかもしれない。父親が夜にあまりに美味しそうにビールを飲むのを見ていて、ある日フタをした洗濯機の上にポンと置かれたグラスに入ったビールを勝手に一口飲んでみたことがある(※幼稚園年少時、銘柄は麒麟)。あまりに苦くて流石にうえっとそれ以上は口を付けなかった。お酒が本当においしいと認識したのは、大学2年の春合宿で口にしたバーボン(フォアローゼズ)が初めてのことだ。
昨日の自己紹介記事にちらっと書いたが、私は幼稚園の年長から小学二年生にかけての約2年半を、父が受けた転勤命令により、母と生まれたばかりの妹共々マレーシア(クアラルンプール)で過ごした。現地では、幼稚園から中学三年生まで確か総勢120名ほどの生徒がいる日本人学校に通っていた。駐在員の子供たちばかりなので、入れ替わりも一部はそれなりに激しかったように記憶している。とはいえ同学年は常に15人以上はいたように思う。私はその中でもマレーシア滞在は短い方だったようだ。
再び強調しておくが、基本的に私は致命的なほど記憶力が悪く、当時の同級生たちと会っても(凄いことに、この日本人学校はオリンピックのように4年に1度のペースで「ドリアン会」という同窓会を日本国内で開催している)、思い出話についていけないのだ。みんなよく覚えてるなあ、と感心するばかり。自分が一部の男の子たちにいじめられていた記憶さえ全く綺麗に飛んでいた。同窓会で本人たちから話を聞き、初めて「そうだっけ?」とうっすら「そういえばなんかあったかもしれない」という程度に少しだけ蘇った気がした。
が、マレーシアを去る時、皆が書いてくれたお餞別の文集の中に、担任の先生が「真紀子ちゃんはひっこみじあんだからそこを直すといいね」というワンフレーズがあったのだけは強烈に覚えている。ひっこみじあん、という言葉そのものを人生で初めて聞いたので、その言葉とその意味が、その後の自分の人生にも「そうか自分は引っ込み思案なんだ」と、どことなく自覚させるものとして影響を与えたようにも思う。ちなみにその言葉を読んだ当初はずっと「ひっこ+みじあん」という組み合わせだと思い込んでいた。それじゃ全く日本語として理解できるわけがないのだが。
しかし東京の幼稚園では傍若無人、マレーシアに行ったら部外者意識ゆえに縮こまってしまったのだろうか。そんな印象も自分の中では無いのだが、学校から家に帰ると近所にいる日本人の子供は別の学年の子数名しかいなかったので、その子たちとはたくさん遊んでいた分、同級生とはどこかしらよそよそしくなっていた部分がひょっとしたらあったのかもしれない。でも、基本的には学校に関しては楽しかった思い出しかない。そういえば放課後もほとんど毎日水泳教室に通っていたから、そこに通う同級生たちとはいつも一緒にプールで競い合っていた。あの熱帯地域のマレーシアでの水泳が無ければ、1970年代の東京の大気汚染で病んでいた小児喘息も治らなかったかもしれない。結局、後年数十年も経ってからイタリアでまた呼吸器系が少々やられてしまったのだが。
人間は、中途半端ないじめや辛い経験をしても、記憶から抹消してしまうものなのかもしれない。そういう時は、楽しかった思い出の方が鮮やかに蘇るのかもしれない。人間はどんな時にも、普通は自分が生き残るための選択を無意識に行っていくものだ。私の場合は悲しい記憶よりも、楽しかったことのほうが生き残るためには大切だったのだろう。いじめと言っても覚えていないレベルぐらいだから、そもそも大したことはなかったはずだ。今の子供たちの陰湿ないじめのレベルを聞いていると、ゾッとするものがある。そういう陰湿さは、少なくとも私の子供時代にはスマホもなかったし、もう少し周囲がこぞって配慮できるレベルのものだった。必ず正義の味方が複数人現れる時代だった。少なくとも私が経験した複数の学校では、の話ではある。まあ子供とは自分の経験から言っても抑えが効かず残酷なものだから、時代には関係なく、置かれた環境の問題のほうが大きいかもしれない。
しかしマレーシアでの記憶といえば、細かい子供の遊びの記憶よりも、自分にとっては生き方の原点ともいえる思想の一部が生まれてきた土地でもあったという意味で、実に大切なものとなっている。
煮沸してからでなければ絶対に飲めない水道水(プールの塩素はその代わりかなり強かったかも)。台所の引き出しを開ければゾロゾロ出てくる茶色いゴキブリの群れ。朝起きれば、家の建物のあちこちに人の足跡(泥棒未遂に終わったが)。いつの間にかマグダラのマリアのような長髪でボロボロの姿をしたおばあさんがユラユラと我が家の庭に入り込み、私を見つけて家に入ってくる勢いで手を伸ばして物乞いを始めたあの午後。マグダラのマリアがわからなかったら、ゾンビを想像してもらえればおおよそイメージは近いと思う。
真っ茶色の川の岸に身を寄せながら手でその水をすくって飲んでいた現地の人々。そして、夜店が並ぶ未舗装の狭い道で、人の波に混じり一人の痩せこけたおじいさんが、両腕だけで上体を引きずるように前へと少しづつ進んでいた夜。よく見ると両脚は切断され、膝より上の部分ぐらいの長さの両腿には包帯がぐるぐると巻いてあった。夜道で見たその光景は、小学校低学年だった私には忘れられない一つの現実だった。子供の行きすぎた遊びで膝を悪くして病院へ行っても、同じような光景が広がっていた。なぜこんなに足が切断された人が多いんだろう、とその時は思った。
「日本は何て恵まれた国なんだろう。私は日本人に生まれて幸せ者だ」
それが、マレーシアに住んでみての私の感想だった。1970年代前半から半ばのことだ。
その小学校低学年での「日本」に対する印象の意味合いが、以後少しづつ私の中で変容していったのだった。
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