三四郎の「童貞力」
夏目漱石の「三四郎」。
百年前の青春小説を紹介する番組を見ていたら、伊集院光サンが「昔から感情移入してしまう漫画などの主人公は童貞力が強かった」旨のコメントをしていた。
渡辺淳一サンの「鈍感力」、姜尚中サンの「悩む力」、赤瀬川源平サンの「老人力」、五木寛之サンの「他力」(たりき)、斎藤孝サンの「質問力」に「発想力」。
いろいろな力があるものだが、童貞力とは。
伊集院サン曰く、星飛雄馬、花形満、寅さん・・・。
うなずける。よくわかる。そして、自分も間違いなくそっちに近いと言える。(自身をあっち側だと断言する人もあまりいないか)
その番組の解説の東京大学教授阿部公彦サンはこの小説を「応援小説」と呼んでいた。読者に、戸惑う三四郎の背中をグッと押してあげたくなる気分にさせるというのだ。
伊集院サンは、野球一色だった飛雄馬や恋愛下手日本代表(いや、世界トップレベルか)のような寅さんに、もう一息がんばれ、と声をかけたくなるのだろう。
恥ずかしながら三四郎を読んだことはないが、明治時代の小説、夏目漱石は「教科書で出会った文章」という印象だ。堅いイメージがある。だが主人公の姓が「小川」というのがずいぶんと普通に感じられた。先輩の野々宮 宗八、あこがれの女性、里見 美禰子(みねこ)と比べても圧倒的に普通だ。三四郎の「童貞力」は平凡な男のものだ、ということを言いたかったのだろうか。読むのが楽しみだ。
こうして文学との出会いに浸る一方、「三四郎」と言えば錦糸町の大衆居酒屋だ。船の舳(へさき)を思わせる年季の入った白木のカウンターが心地よい。最近は割烹着を着なくなった女将は元小町だったことは想像に難くない。
老舗居酒屋も中国人アルバイトが注文を取る時代だがもはや違和感はない。仏頂面はいただけないが、だからこそ、たまの笑顔が引き立つ。やまかけのねばっこい芋を食べたくなる。
コロナによる営業自粛が悔しい。
ちっとも文学で話を締めることができない。
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