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戻らないのは体力か希望か覆水か
「体力の限界・・・」
1991年、横綱千代の富士は引退会見で続けた。「気力もなくなり引退することになりました」。貴花田戦に敗れ、決意した。
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1687453.html
大横綱千代の富士、涙の引退「体力の限界…」(日刊スポーツ)
体力、気力ともに無くなれば力士として前進するのは極めて困難だ。しかも横綱であれば強さ以外にも品格だの何だの不文律ががんじがらめに縛る。そうしたなか、すばらしい引き際の例として語られている。
さて一般会社員のハナシ。定年まであと数年。ウツが追い打ちをかけるなか、モチベーションなどあったものではない。多くはないが薬も服用し続けている。果たしてもとに戻るのかと気持ちは焦る。
アスリートだって、50代がどれほど鍛錬したところで20代の体力には戻らない。維持もできない。ウツではそんな当たり前のことがわからなくなる。体力は無理にしても、気力や気分、ひいては「元気でそれなりに楽しかった頃」に思いを巡らせ、なぜ戻らないのかと残念がったり焦ったりする。
「戻らないよ」
的確なアドバイスをくれる友人は電話でひとこと、あっけなく伝えてくれた。
そう、戻らないのだ。50を過ぎて毎日楽しいことがあるわけがない。希望は持ちつつ現実的には難しい。では毎日嫌な思いはしているか。楽しくないイコール嫌なことだろうか。
何年も前の目の手術後のまぶたがつる感じは元に戻らないし、覆水も盆に返らない。コロナで変わった働き方も、レジャーも、人とのコミュニケーションも元には戻らない。戻らないだらけなのだ。
書籍「大河の一滴」(五木寛之著、幻冬舎文庫)によれば、五木サンは「人生はおおむね苦しみの連続であり、そう覚悟することでこころ萎えた日々からかろうじて立ち直ってきた」という。
厳しいね。
だがそういう苦しい中で出会うかすかな楽しさや人の優しさは「旱天の慈雨」だそうだ。干からびた大地にその一滴はしみこむ。
その一滴があれば良しとするか。